O V E R

Scene24


いつかきっと、正春が迎えに来てくれる。

こんな再会をするとも知らずに、子供の俺は、何度もそんな夢を見た。
ひとりきりの寂しい夜に、正春の名前を呼んだ。
迎えに来た正春と、一緒に世界中を旅してまわる――
誰にも言ったことがない、だけど擦り切れるほど読み返した、それは俺だけの、大切なおとぎ話だったのだ。


吹き上げる強風が、下の踊り場に立つ篠崎の――正春の、長い髪を巻き上げた。
そうやって立つ姿は、どこから見ても女のものだ。
互いに無言のまま、動けずにいた。
苛立ちに口元を歪めて、こちらを睨みつけている表情の中に、かつての面影を探し出そうとしてみたが、見つけることはできなかった。
それでもこれが、俺が会いたいと思い続けてきた、正春だ。

――本当に出来るのか?
自分の胸に問いかける。
本当に、俺に、出来るのか?

「ずいぶん、無理をしたみたいね」
俺の右手に巻かれたハンカチに目をやって、正春が皮肉な笑みを浮かべる。
「もう少し待てば、簡単にあそこから出られるようにしておいてあげたのに、まさか、あんなに早く目が覚めるなんて――」
「よせよ」
自分でも抑えられずに、反射的に正春の言葉を遮っていた。
「そんなふうに……篠崎のフリなんかするな」
思わず吐き出した叫びに、正春がぴくりと眉を上げる。

優しい子だったのよ。
須賀谷加奈子の言葉を思い出していた。
寂しがりやで、歳の離れた兄に懐いていた、優しい子供だったのだと。花の名前を教えてくれたのだと。
正春の身に何が起きて、何が正春を変えてしまったのか。
あの温室にあった花の名を、俺はひとつも教えてもらっていない。

能面のような、表情のない顔をして。
無言のまま、正春は階段を上がり始めた。
かつん、かつんとヒールの音をさせながら、一歩ずつ、こちらへ近づいてくる。
心臓が脈打ち、緊張のせいで、こめかみの辺りがズキズキと痛んだ。
正春から目をそらさないよう、自分に言い聞かせながら、体の後ろに隠した左手と、左手に掴んだものを強く意識した。
力を入れては駄目だ。気付かれる。前を見るんだ。

とうとう俺の目の前に立った正春が、すっと腰を落として屈みこみ――
「何を怒っている……? 昨夜あんなに慰めてやったのに」
細い指で俺の顎をとらえ、息がかかるほど近くで、ふふ、と笑った。
「おまえ……」
悪意の滴る挑発を無視して、俺は言った。
「篠崎真理は……本物の篠崎真理をどこへやった?」
「……しのざき?」
意外そうに目を見開いた表情から、正春が今の今まで、本当にその人物を忘れていたことが分かった。
「ああ、篠崎……。気にしなくていい。世の中には、いるんだよ。消えても気付かれない人間が」
両手で俺の頬を撫で、まるで歌うような、優しい声音でそう言った。
「いなくなっても誰も気にしない、そういう人間がね……」
予想していたことだというのに、正春のその言葉に、俺は凍りついた。
殺したのか。
おまえがそれを言うのか。
踏みにじられて傷ついたはずのおまえが、そうやって人を踏みつけるのか。
「おまえは優秀だよ、永一」
とらえた顎を上向かせ、正春は俺の目を覗き込んだ。
「あんなにたくさん仕掛けをしたのに、全部くぐりぬけて、ここまで来た――そう、たとえば」
理解していない俺の表情を読み取って、微笑んだ。
「あの夜に、おまえの家に行ったんだ。おまえは来なかったから、焼いてしまおうと思って。そうしたら、おまえはいなかった……」
あの夜、というのがいつのことなのか、ようやく気が付いた。
ずっと昔の、子供のころ。正春と約束をした夜のことだ。
俺は約束の時間に行くことが出来ずに、遅れて家を飛び出した。
「俺は……」
正春があの夜、俺を殺しに来たのだという事実を告げられて、頭の中が真っ白になった。
あのころから、正春には、俺を始末するつもりがあったのか。
「おまえは、家が燃えているのを見ていた。知ってるよ。おまえのことは、よく知ってる。ずっとあの鍵を捨てずにいたことも。手紙をもらっても、誰にも言わずにいたことも。あの屋敷で電話を見つけても、警察に通報しなかったことも」
電話。
あの洋館で、手錠の鍵と手紙が置かれていたチェストの上には、確かに電話もあった。
「これにはルールがあるんだ。おまえは賢いよ。結局おまえだけが、最後まで、ずっと正しい答えを出し続けたんだから――」
優しい声で俺の頬を撫で、ぞっとするような微笑みを浮かべる。
「知らないよ」
俺は正春を睨みつけて言った。訳もなく息が上がって、呼吸が苦しい。
「おまえのルールなんか知らない。勝手なことばかり言うな。したくないから……しなかっただけだ」
正春は、ほんの少し首をかしげた。

決して自分を裏切らないこと。
それが正春の言うルールで、俺がそんな素振りを見せたら、いつだって殺してしまうつもりでいたのか。
俺は賢くなんかない。おまえの罠だなんて、知るわけがない。
あの洋館で電話を見つけた瞬間、取るべきただひとつの行動を捨ててしまったのは、そんなことをしたくなかったからだ。
おまえには、分からない。
親しい人間を危険に晒していると知りながら、俺は警察に通報できなかった。
どうして出来なかったのか、簡単に他人を裏切り者と切り捨ててしまえる、おまえには、分からない。

「どうして震えているんだ?」
囁き声で、正春が問いかけた。
「永一、どうした……? さっきから、その左手に隠しているものは――何だ?」
ほんの一瞬の出来事だった。
俺は正春の腕を引いて、その場に引き倒した。
倒れこんだ正春の後ろにまわり、腕をとらえて押さえつけるのは、あっけないほど簡単だった。
「……動くな」
首筋に、左手に握ったものの先端を押し当てる。
一時的に止んでいた雨が、いきなり音をたてて天から降り注いだ。
豪雨がまるで幕のように、この場を外界から遮断した。
ここには二人きり。何があっても、俺と正春の、二人きりだ。

「今度こそ……連れて行ってやろうと思ったのに」
不自然なほど静かな声で言う、うつ伏せに倒れこんだ正春の顔は、俺には見えない。
「おまえとは行かない」
雨の音に負けないよう、声に力をこめた。
「これが俺の答えだ。おまえとは、絶対に、行かない」
「……裏切るのか?」
低い声だった。
押さえ込んだ体に少しずつ緊張が生まれ、正春が自制心を失いかけているのが伝わってきた。
「おまえまで……私を裏切るのか?」
抑揚のない、のろのろとしたその口調が、何故か悲鳴のように響いて、俺を追い詰めた。
本当に俺に出来るのかと、もう一度だけ自分に問いかけた。
あんなにしがみついてきた思い出を、本当に振り切ることが出来るのか?

正春だけが、俺の名前を聞いてくれた。
文字を教えてくれたんだ。
たったそれだけだ。
たったそれだけのことを、与えてくれたのは、おまえだけだ。
おまえの望みを叶えてやりたい。
おまえの言いなりになってしまいたい。
おまえに笑ってほしいんだ。

だけど、ここで俺が言わなくてはならないのは、たった一言だ。
その耳にはっきりと届くよう、息を吸い込んだ。

――私を裏切るのか?

「……裏切るよ」

その瞬間、正春を繋ぎとめていた最後の自制心が断ち切られたのを、肌で感じた。
凄い力が俺を撥ね退け、押さえつけていた体がするりと脱け出し、顎を何かで強打される。
よろめいたところを、体ごとぶつかられた。
深い。
四年前の経験とは比べ物にならないくらい深く、刃物の先端が腹の奥まで届いているのが感じられた。
腹の中で捻られ、乱暴にナイフが引き抜かれる。
その衝撃に、呻くことさえ出来ずに痙攣した。
正春の怒りに満ちた表情が、俺の体を離れるにつれて、満足した微笑みに変わり――そのまま凍りついたのは、足元に転がったそれを見たせいだ。
小さな音をたてて、俺がずっと左手に握り締めていた、温室の鍵が転がった。
「どうして……」
血まみれの自分のナイフと、小さな鍵を見比べて、呟いた。
そんな小さな鍵を刃物だと思い込むなんて、馬鹿なやつだ。
俺がおまえに刃物を向けると思うなんて、馬鹿なやつだ。

「おまえとは、絶対に行かない」
これが最後だと、残る力の全てで顔を上げ、正春の目を正面から見た。
「行かないけど……全部やる」

永一、と呼ばれたような気がした。
踊り場から足をすべらせた俺の背中に、階段の手すりが当たった。体はそこでは止まらずに、手すりを乗り越えて落ちて行く。
紙で出来た人形のように、くるくると回りながら。


おまえに届けばいいのに。
おまえは、自分が生き延びるための代価を、ずっと他人の命で支払い続けてきた。
自分の痛みではなく、他人の命で。
それでは駄目だ。
そんなことでは、駄目なんだ。

俺を失くして、少しは悲しむといい。
そして今度こそ、生き直せ。
生きのびて、違う道を選ぶんだ――

言いたかったことを何ひとつ言葉に出来ないまま、落ちて行った。
こんな勝ち方を選んだ俺を、志村は怒るだろうなと思いながら。







「あの人が、死んだって言ったのよ」
腹立たしくてたまらない様子で、母親が言った。

最初に病院から連絡を受けたのは、当然この居所不明な母親ではなく、れっきとした俺の現在の保護者である祖母だった。
しばらく病室に顔を見せなかった孫が死にかけていると聞いて、さすがの祖母も仰天したらしい。

どうやら心臓が停止したのは事実なようで、それから蘇生した不安定な状態であると、伝え聞いた事実を説明したかったようなのだが、そこは普段からコミュニケーションのとれていない間柄のこと。祖母の言葉は母親にうまく伝わらず、俺は死んだことになってしまったらしい。
駆けつけた母親が集中治療室に飛び込んで「なんで死んじゃったのよ」と泣き叫んで俺を揺さぶり、「本当に死ぬからやめなさい」と職員に連れ出されたという笑い話を聞かされたが、俺がたまたま生き延びていなければ、笑い話にはならなかったところだ。
「……謝らないからね」
「いいよ、死ななかったし」
苦笑した俺に、母親は決まりの悪そうな顔をした。
「そうじゃなくて、あんたの友達のこと」
ああ、と俺は気が付いた。
そういえばすっかり忘れていたが、志村のことを母親と話すのは、これが初めてだった。
「謝らないからね。どうせ、あんたなんて、すぐに好きな子とか出来ちゃって、あたしなんかいらなくなっちゃうんじゃないの。あんたなんか……どうせすぐに、どっかに行っちゃうんだから」
言いながら、母親は泣き出した。
初めて母親の内にある寂しさを見たような気がしたのだが、謝るだの謝らないだの、およそこの人の感性とはかけ離れたことを言い出したことが不思議で、ふと思いついた。
「母さん」
「なによ」
涙をぬぐって、母親が答える。
「……もしかして、志村にフラれたんじゃ」
「なによ! なんでそんなこと知ってんのよ!」
やっぱりそうかと内心で頷きながら、ごく自然にこう言った。
「なんでって……志村は、俺が嫌がることはしないから」
「……なによそれ、なんなのよその自信! あんたいつからそんなイヤな子になったのよ?」
口惜しそうに顔を赤くして、持っていた紙袋を振り回して、俺を叩く。
顔が傷だらけで、何が触れても結構痛いのだが、笑ってそのままにさせておいた。無事で良かったと思いながら。
あの日、母親が目覚めたのは、見知らぬ車の中だったそうだ。訳が分からないまま車を降りて、自力でマンションへ戻ったころは明け方で、ちょうど祖母が俺のことで母親に電話をしてきたところだったらしい。
俺との通話が途絶えた後のことは記憶になく、そもそも俺と話したことさえ覚えていないのだと言う。
正春は、おそらくは最後には俺への切り札として使うために、母親を殺すのではなく、拉致しておいたのだ。
暴力を受けた形跡もなく、所持金も無事だったことから、母親は「まあ、いいわ」という一言でこの件を終わらせてしまっていた。


俺はといえば、無事どころの騒ぎではなく、母親が誤解したとおり、死んでいないのが不思議なくらいの状況で運び込まれたらしい。
腹の刺し傷が内臓をかすっていて大量出血し、足は両足とも複雑骨折のうえ、右足の裏の傷がひどい炎症を起こし、落下の際にどこかでぶつけたらしい腕と背中に深い裂傷があった。
その様子から想像するに、頭から地面に落ちたのではないらしい。あの雑居ビルの小さな非常階段は、隣のビルと接している。隣の建物の庇か何かに、引っかかってから落ちたのではないだろうか。
俺がその状況ではっきり意識を取り戻したのは三日後で、その時は生きていたことに驚いたり喜んだりするよりも、あまりの痛みに再び気を失ってしまいたいと思ったものだ。
あれから一週間経って、ようやくまともな会話が出来るようになってはいたのだが、今でも不思議だ。
俺が生きて戻る可能性など、無かったはずだ。
たとえ落下の瞬間には生きていたとしても、あの天候で、人通りのない路地で、誰にも発見されずに死んでいたはずなのだ。
誰かが、救急車を呼ばないかぎり。


「……本当にねえ。配役が大事だってことが、イヤってほど分かって、勉強になったわ」
おおげさに溜息をついたのは、寺田亜紀の友達だという、初めて顔を見る演劇部員だった。
髪の長い、おとなしそうに見えるこの友達が、あのとんでもない脚本を書いた人物だと知って、俺は驚いた。
「向坂くんがやってくれてたら、育ちの良さと危険なカンジが上手く出て、泣ける芝居になるはずだったのに……まさかあんな爆笑劇になるなんて」
「ねえ、びっくりしたねー」
腕組みした寺田が、うんうんと同意する。
「おまえらな、勝手なこと言うな! 俺がどんなに大変だったか……!」
志村が憤慨して声を張り上げ、病室中の視線を集めてしまう。
「えー、タイヘンだったのは私だもん。カンペ何枚書いたと思ってんのー。しかもフリ仮名つきで」
「うるせえ、下手字! 読めねえ字書きやがって、おまえのシとツは間違ってんだよ!」
「なあによエラそうに。間違ってるって分かってるなら読めるでしょ!」
永ちゃん、と寺田に言い負かされた志村が助けを求めてきたが、ベッドに横たわって動けない俺は、ただ笑っておいた。
学園祭は無事に終わり、俺が出るはずだった演劇には、志村が代役で出演することとなった。
爆笑につぐ爆笑で、観客には非常にウケたらしいのだが、そのウケ方が脚本家の気に入るものではなかったらしい。
「再演するから、今度はよろしくね!」
俺の手を握って、寺田と二人で帰って行った。
志村が俺の代わりを買って出たことにも驚いたが、寺田と連れ立って見舞いに来たことにも驚いた。
「おまえ、寺田さんと仲良く……」
なったんだなと言いかけて振り向き、そこに志村が寺田たちに向けて「あかんべー」をしているのを見つけてしまう。
「おまえ……」
「あ? 仲良く? なるわけねえっつの。でも俺は考え方を変えた。永ちゃんは、アレだ。放っておくと、ヘンなとこでヘンな女に引っかかって危ないから、寺田でいい、もう寺田にして、俺を安心させておいてくれ」
「なに言ってんだよ……」
あきれた言い草だが、志村シナリオによると、俺は「危険な女とかかわり」、「その愛人の暴力会系の男に見つかり」、「オトシマエをつけられた」ことになっているらしい。
誰かにそう言ったのを聞いたわけではなく、俺を元気づけようとする言葉の端々から、どうもそう思っているらしいことが分かった。
事実関係はともかく、大筋ではなんとなく間違っていないような気もしたので、俺は否定しないでおくことにした。
たびたび病室を訪れる志村の噂話から、篠崎真理が急に学校を辞めてしまったらしいことを聞いたが、志村にも詳しいことは分からないのだそうだ。
最近では代わりの講師がやってきたようで、学校では何事も無かったかのような日常が流れている。
俺はといえば、思ったより回復が遅く、学園祭が終わり、肌寒い季節になっても、リハビリを続けながら、いまだに病院にいた。
そんなある日、聞きたかった情報は、意外な人物からもたらされた。
最後に病室に現れたのは、松下だった。



「出られるか?」
あいかわらず愛想のない松下にうながされ、俺は松葉杖で屋上へ出た。
この病院は祖母の入院先の大学病院と違って、散歩の出来るまともな庭があり、ここへは他に誰も来ていなかった。
今日の陽射しは暖かく、大気は澄んでいて、遠くのビルまでもがはっきりと見渡せる。
「言っとくが」
松下は無言のまま侵入防止用の鉄柵のところまで歩き、不機嫌そうに切り出した。
「おまえをここへ運び込むのを手伝わされたのは、この俺だ」
「……え?」
意外な告白に、呆然とする。
「どうして先生が」
松下が、俺を?
松下和樹は、むっつりと不機嫌な表情のまま、こう続けた。
「俺が聞きたい。あの日、いきなり携帯に電話があって、近くにいるなら手を貸せって言うんだ。場所だけ説明してさっさと切られて、仕方がないから行ってみたら、血だらけの死にかかった人間がいるじゃないか」
「電話って……」
思わず、声が細く震えた。
「あいつに決まってる。なんで俺があいつに命令されなきゃならないんだ? 救急車が間に合わないからって、後部座席におまえを乗せて、タオルで傷をかるく押さえていろと言われて、脈を取れだの、手を握って呼びかけろとまで言うんだから。何で俺が。運転は俺がするから、逆のほうがいいんじゃないかと言ったら、『道も知らないおまえのチンタラした運転に任せられるか』と怒鳴られた。このセリフ、これは記憶してるから、一言一句まちがっていないはずだ」
苦々しく松下は吐き捨て、俺は意外な事の成り行きに、何も言えずにいた。
もしかして、正春が救急車を呼んでくれたのかもしれないとは思っていたが、まさか自分で病院へ運び込んだとは――
「何も覚えていないのか? 俺が呼んだら、一回だけ目を開けて、はっきり言ったぞ」
俺の顔色を見て、松下は続けた。
「花の名前を教えてくれって」
「花の名前……俺が、ですか?」
そんな時に、そんなことを口走ったのか。須賀谷加奈子に会った時の夢でも見ていたのだろうか。
「……何か言ってましたか?」
「正春は」とも「篠崎が」とも言えず、主語を抜いて、俺は尋ねた。
「ああ、家政婦のところに何を聞きに行ったのかって。須賀谷さんに会ったことは、俺は話してないのにな。それでもそのまま教えてやった。温室の花がどうとかいう思い出話くらいで、たいした話はしなかったって。あいつは何も答えなかった」
正春の横顔が浮かぶようで、俺は黙り込んだ。
何を考えて、ハンドルを握っていたのだろうか。
「救急外来へ運びこんだはいいが、傷がなにしろ刃物の刺し傷だし、すぐに警察に連絡されただろうな。あいつはそれが分かってて、医者と話した後は、さっさと病院を出て行った。俺は出て行くわけにも行かないから、処置室の前に残った」
「そうですか……」
ぼんやり呟いてから気が付いて、「ありがとうございました」と深く頭を下げた。
松下はしばらく黙っていたのだが、やがて我慢しきれなくなったように口を開いた。
「こんなことを伝えてやる義理はないんだが、あいつからだ。『鍵は返してもらう。花の名前くらい自分で調べろ』……以上だ」
「俺に、ですか」
松下の言葉に、俺は動揺した。正春が俺に何か言葉を残すなんて、思いもしなかったのだ。
俺を助けて、鍵を持ち去って、正春は去って行った。
「まったく、腹の立つ。電界強度計で家の中を調べたら、盗聴器だらけだった。気持が悪いから業者に頼んで徹底的に調べて撤去させようとしたら、何十万も要求してくるし」
「払ったんですか?」
「払うか、そんなもの。放っておけば、どうせ受信機の電池切れで使えなくなる。まったく、さんざんだ。警察には目をつけられて、火事のことまであれこれ聞かれるし……、そうだ、警察と言えば、お祖母さんの入院先で爆弾騒ぎがあったのを知っているか? あの台風の夜、警察に若い男の声で爆破予告が入ったとかで、大騒ぎになったらしい」
「はあ……いろいろ、ご迷惑を」
居心地の悪い思いで、俺は曖昧な謝罪を口にした。
俺を運ぶことを手伝った松下に、俺の家の放火の疑いまでかけられていたとは、気の毒なことをした。
祖母の病院のことは……
「その爆破予告なんだが、婦人科病棟のどこかに、これこれこういう装置をしかけたから、探し出せと言ってきたらしい。説明がこまかいわりには、電話はすぐに切れて、何の要求も無かったそうだ……おかしな話じゃないか?」
松下は、反応のない俺を振り返った。
「分かってるのか? 下手をしたら全部の犯人にされてしまうところだったんだぞ。そうでなくても家が放火された時に行方が分からなくて……あんなところで死にかけていたせいで、怪しまれているっていうのに、どう説明するつもりだったんだ」
「どうって……」
松下が発散する怒りの気配に気圧され、俺は返す言葉もない。
後のことなど、何も考えていなかった。
とにかく病院だけは、逃げられない患者ばかりがいる病院だけは、間違っても出火させるわけにいかず、かといって病院に警告を与えても、騒ぎを起こすだけで間に合わないだろうと思い――公衆電話から一本だけ電話をかけた。警察へ、爆破予告を装った電話を。
「俺は、死刑制度の廃止には反対な人間だ」
松下が、鋭い目つきで、俺を睨みつけた。
「人の命を奪った人間に、どうしてやり直す機会を与えなきゃならない? 被害者には二度と与えられない機会なのに。償いなんて言葉には、虫唾が走る。加害者も、そいつらを更生させようとする人間も、我慢ならない」
松下の言うとおりだと思い、だから何も言えずにいた。
正春にやり直してもらいたいのは、俺の、俺だけの、ひとりよがりな願いなのだ。
だけど、不思議だ。
正春に関することは、俺は何も聞かれていない。事情聴取のときに、失踪したという篠崎真理については質問されたが、その人物が他の名前を持っていたことまでは、追求されなかった。
誰も知らないのだ。
松下は、正春を真理ではなく「あいつ」と呼び続けているのに、それを誰にも教えていない。
「先生は……」
俺は迷いながら口を開いた。
「警察には何て話したんですか……?」
「何って、そのまま言っただけだ。同僚の篠崎という教師に電話で呼ばれて、怪我をした生徒を運ぶのを手伝った。篠崎は病院を出て行った。篠崎と生徒の間に何があったのかまでは分からない」
「どうして……」
「どうしてだって?」
出来の悪い生徒を見る目つきで、松下は俺を見た。
「俺は口先だけで人権がどうとか償いがどうとか言うやつが、大嫌いだ。だけど、自分の命をかけるんなら―― 一回くらい、聞いてやらないこともない」
驚いて、俺はその数学教師を見返した。
ずっと正春を追い続けてきて、どうしても捕まえたいはずのこの男が、そんなことを言うなんて。
「それから、これはオマケだ。病院を出ていこうとするあいつに、言ってやった。伝言なんか残しても無駄だ。もう助からないから、側にいてやれって。そうしたら……」
松下は、こう続けた。
「『永一は絶対に死んだりしない。あいつはああ見えてしぶといんだから』だそうだ。ああいうやつでも、死んでほしくない人間がいるらしいな」
ふんと笑って、別れの言葉ひとつ言わず、松下は屋上を出て行った。
俺は松下の姿が見えなくなってからも、ずっとその場に立って、見送っていた。



それから間もなく、俺は退院して学校へ復帰し、どうにか留年を免れた。
祖母が亡くなったり、志村がまた厄介ごとに巻き込まれたり、母親が予想もしなかった男と付き合い始めたりして、俺を悩ませることになるのだが――それはまた、別の話だ。



これは、俺の子供時代の終わりの物語だ。
ずっと乗り越えられずに抱えていた、二度とは帰りたくないころの思い出話だ。
それでも時々思い出し、考えることがある。
正春から受け取った、一通目の手紙。
あれはずっと昔に、本当に、子供の俺に宛てて書いた手紙ではなかったのかと。
転居続きの生活のせいで、受け取ることがなかった手紙だったのではないかと。


学校は楽しいですか?

幸せですか?

会いには行けませんが、いつも、どこにいても、きみの友達のつもりでいます。


その答えを手にすることは永久にないと知りながら、
それでも、考えることがある。


(了)
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