O V E R

Scene23


「どうした? 電話切れちゃったのか?」
志村の声に、現実に引き戻される。

どこか遠くでサイレンが鳴り、川の堤防が決壊したという放送が、街中に響き渡った。

自分の家を焼いた時と同様に、正春は、ほぼ一瞬で全てが終わるよう、複数の仕掛けを用意していたのだろう。火勢は強く、この暴風雨の中でさえ、凄まじい勢いで燃え広がった。
この様子では、消防車が到着するまでに、すべては焼け落ちているはずだ。
母親の電話が切れた後で通報したのは、隣近所への延焼を恐れてのことで、祖母の家を救うことは、出火を見た瞬間から諦めていた。

「永ちゃん、消火器! 消火器かりてこよう、早く!」
そんな俺の肩を、志村が叩いて、駆け出して行く。
――もう、遅い。
燃えさかる炎のまぶしさに目を細め、待たせていたタクシーを振り返った。
胸の奥に広がる、この苦いものは、後悔だ。
俺は、とんでもない勘違いをしていた。

「どうしたんだよ?」
その場を動こうとしない俺に気が付いて、志村がバシャバシャと水音をさせて戻ってくる。
いいんだ、と俺は言った。
「もう、いいんだ。他の仕掛けがあるかもしれないから、下手に近寄らないほうがいい……」
俺の口から出た言葉は、まるで他人のもののように、うつろに響いた。
無力感が手足の力を奪い、降り続ける雨が体温を奪っていく。


監禁されていた半日だけが、無駄にした時間じゃない。
志村と俺の母親が、偶然出会うなんてことは、あり得ない。
何年も前から、正春は俺を嵌める罠の準備をしていたのだ。


仕掛けはすでに終わっている。
母親の部屋。祖母の病院。瀬戸先生の家。
俺の行きそうな場所には、全て、ここと同じ発火装置があるはずだ。
俺が正春を追いかけているのではない。正春が、俺の立ち寄る先を破壊している。
俺が行く先を。俺が連絡をとった人を。
正春は、ただ待っているだけでいい。勝ち目のない事態を悟って、俺がおとなしく――自分から、戻ってくるのを。


乗って来たタクシーを振り返る。
あれに乗って、あの洋館まで戻れば、正春はこれ以上、誰にも手を出さないはずだ。
「いいって、本気で言ってんのか?」
他人ごとのような俺の態度に刺激されたのか、志村が声を荒らげた。
「なに言ってんだよ、よくねえだろ。家が燃えたなんて知ったら、ばあちゃんだってがっかりするし、大事なもんだってたくさん――永ちゃん、靴は?」
俺の足元に気が付いて、顔色を変える。
「なんで裸足なんだよ? なんだよ、この手首の跡……誰がこんな」
大部分は暴れて自分でつけた傷なのだが、志村につかまれた手首には、確かに手錠の痕跡が残っていた。
なかなか乾かない傷口に雨があたり、血の混じった水滴となって流れ落ちる。
「志村」
「え?」
「俺、あの人には勝てないかもしれない」
手首の傷を眺めながら、呟いた。
正春の思いどおりになって、いいわけがない。
正春は、俺のことをよく知っている。俺が何に傷つき、どんな場合なら諦めるのか、俺よりよく知っている。ほんの数時間前なら、他の人間には手を出さないでくれと言って、俺はあっさり自分自身を差し出していたかもしれない。
今はもう、そんなことをするつもりはない。
だけど俺は正春を説得できない。思いとどまらせることができない。母親を取り戻すことも出来ない。
警察に説明している時間はない。誰にも連絡は取れない。
俺には何の武器もない。
どうやっても、正春には、勝てない――

「くそ、一枚しかねえよコレ」
志村が真剣な顔をして、どこからか引っ張り出したハンカチを俺の手首に巻きつけている。
ここを目指しているものかどうかは分からないが、消防車のサイレンが聞こえ始めていた。
「……あのさ、よく分かんねえけど、なんで勝たなきゃダメなわけよ?」
「え?」
意外に器用な指が、ハンカチで包帯のように傷を押さえ、包み込む。
「その人はさ、永ちゃんの大事な人なんじゃねえの? 勝ってどうすんだよ、負けてやれよ」
馬鹿だなあ、とハンカチの先を結び、志村は諭すように言った。
「勝ち負けじゃないだろ、そういうのは」
俺は、たっぷり10秒、考えこんだ。
「おまえ、俺が……恋愛ごとの相談をしてると思ってるのか?」
志村は目を見開いた。
「え? もしかして、まだそこまで行ってない話なのか?」
「いや……」
どこをどう誤解したら、自分の家が燃えている目の前で、手錠の跡をつけて裸足で帰ってきた俺が、恋愛ごとについて相談していると思うのか。
昨夜の外泊から、志村なりに想像を働かせたのかもしれないが、あまりに意表をつかれて呆然として、ついには笑い出してしまった。
「なんだよ? なんでそこで笑うんだよ?」
「だって、おまえ……だって」
笑いすぎて、俺は咳き込んだ。名アドバイスをしたつもりの志村は、顔を赤くして怒っている。
「ちょっと、ねえ、お客さん。どうすんの? 乗るの乗らないの?」
待たされ続けたタクシーの運転手が、とうとう痺れを切らして、俺を呼んだ。
もう、行かなくては。
「永ちゃん?」
「行ってくる。……試合に負けて、勝負に勝つ、だな」
「言ってねえよ、そんなこと」
志村が、不満そうに口をとがらせる。
これが最後になるかもしれないと思いながら、俺はもう一度、その顔を目に焼きつけた。
「……おまえなんか殺してやるって思ったよ」
俺の言葉に驚く様子もなく、志村はフンと鼻を鳴らした。
「なんだそれくらい。俺なんか先週から、ずーっと思ってたね。電話ひとつよこさねえし、学校には行けねえし、永ちゃんのひとでなし冷血ヤロー、絶交だ、死んじまえって」
俺は吹き出して、ひとしきり笑った。

正春のやり方に、俺が付き合う必要はない。俺は俺の答えを出せばいい。
志村には、言わなかったこともある。
できれば、ここに留まって――もう少しだけ、おまえの友達でいたかったと。





雨は一時的に小降りになっていた。
まだ夜の早い時間だというのに、繁華街の通りに人影はなく、誰もが今夜は安全な家の中で、台風が通り過ぎるのを待っているようだった。
その雑居ビルを選んだのは、何の鍵もかかっていない非常階段が目についたからだ。
相変わらず風は強く、物音がして下に目をやると、どこかの店の立て看板が吹き飛ばされて道路を横切っていくところだった。

……もう少し、上まで行こう。

3階部分を通り過ぎ、まだ上を目指す。8階建てのこのビルは、地階と1階がバーで、残りは怪しげな店とオフィスで占められていて、上へ行くほど静かだった。
右足の裏に傷があるはずだったが、もう痛みは感じなかった。ただ、足が重いだけだ。
俺の顔色がよほど青白かったのだろう、志村から奪った財布で料金を払ったとき、運転手に「ホントに大丈夫?」と聞かれた。
祖母の病院へは向かわなかった。母親のマンションへも行かなかった。
見かけた公衆電話を使って電話を一本かけた他には、どこへも立ち寄ることなく真っ直ぐに、タクシーをこの街へ向かわせた。

……この辺りでいいかな。

5階の小さな踊り場で止まり、その場に腰を下ろす。
片足を投げ出して、深く息を吐き出した。
失血しすぎたせいか、手足がひどく重い。もう、一歩も歩けそうにない。

……早く来い。

正春が俺の行先を察知するのは、盗聴によってだろうと見当をつけていた。
俺をいちいち追いかけなくても、立ち寄りそうな先に盗聴器を仕掛けておけば、事足りる。
だから、これはひとつの賭けだった。
正春が俺を追いかけていなかったとしたら、俺を見つけ出せないとしたら、俺にはもう打つ手がない。
早く来い、と念じた。
俺が起きていられるうちに、まだ動く気力があるうちに、早く来い。


どれほど時間が経っただろうか。
何度目かの浅い眠りに落ちかけた時、かつん、かつん、というヒールが階段を叩く音がした。
ゆっくりと、足音は上に向かっている。
俺がようやく頭を起こして下に目をやると、薄いレインコートを身に着けた、髪の長い女がそこに立っていた。

「……どういうつもり?」
紅い口紅をひいた薄い唇が、笑みの形に吊り上がった。

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