O V E R

Scene22


いきなり鼓膜を叩いたのは、雨の音だ。
地下室の扉を開けると、そこは薄暗い、長い廊下だった。
裸足の足が、敷き詰められた絨毯を踏んでいる。

ここは、どこだ。

連れて行かれたマンションの地下室にしては、規模が大きいとは思っていたが、そこは見知らぬ洋館だった。
窓を叩く豪雨に目を奪われ、外の暗闇に気がついて、はっとした。

夜なのか? 
いったい、いつの?

松下と会話をした時に見た携帯電話の表示では、日曜の午前11時だった。
その日の夜だとして、半日。
その翌日だとしたら、もう一日以上経っていることになる。
出口を探して踏み出すと、右足の裏に違和感を感じた。
膝をついて、無理な姿勢のまま後ろ手で足裏をさぐってみると、突起物がある。指先でつかんで引きぬくと、ずるりと嫌な手ごたえがあった。
割れたガラスが、足の裏に刺さっていたらしい。
つかみ上げた破片の長さと、自分の血に濡れた手触りに、身震いした。

――つまらない怪我なんか、してる場合か。

自分を罵りながら破片を投げ捨てると、廊下を歩き出す。
すぐに傷が痛み出したが、無視する以外に方法がない。
廊下のつきあたりに、ぼんやりとした明かりが見えて、誘われるようにそこへ近寄ると、アンティークなランプと電話の置かれたチェストだった。
そこに置かれていたのは、電話だけではない。
ランプの明かりに照らされて、白い紙と、銀色に輝く鍵が待っていた。



その洋館を飛び出すのに、5分。
最初に声をかけた通行人に逃げられて3分、次につかまえた大学生らしき男を説得して手錠を外させるのに5分。
通りに出てタクシーをつかまえるまで、さらに15分。
車の中で、改めて右足の裏を見てみると、細かい破片がいくつとなく刺さり、まるで血まみれのスポンジのような、ひどい状態になっていた。
かかった時間をカウントして、足の痛みをまぎらわせようとしたのだが、座席にじっとしているしかない身では、かえって余計な焦りをつのらせただけだった。
「お客さん、走って来たの? 大丈夫?」
行き先を告げたきり、荒い呼吸を繰り返すだけの客の様子を不審に思ったのか、タクシーの運転手が話しかけてくる。
台風が接近しているらしく、外は傘が吹き飛ばされそうなほどの暴風雨だ。
そのせいで、傘もささないずぶ濡れの俺は、たいして怪しまれもせずに親切な運転手に拾ってもらうことができたのだった。雨で視界が悪いせいで、靴さえ履いていない足元までは見えなかったのだろう。
「……大丈夫です」
言いながら、気持をどうにか奮い立たせ、座席に深く沈み込んでしまいそうな体を起こす。


「脱出おめでとう」

洋館のチェストの上に置かれていた、白い紙に書かれた文字。
ほんの一行だけの手紙の横には、ご丁寧に、手錠の鍵までもが添えられていた。
おまえは自分のてのひらの上にいるのだと、残酷に笑う、正春の姿が見えるような。
――今ならば。
今なら、その芝居がかった虚勢に透ける、正春の真意が分かる。
正春は、どうしても俺を許せない。
連れて行きたいと思いながら、許せない。
許せないと思いながら、殺せもしない。
こんなことを繰り返すのは、そのためだ。
何度となく俺を試し、いくつの答えを手にしても、正春は、まだ俺をどうするのか決められないでいる。

(感想でいい。どう感じたかだけ、教えてほしい)

松下に話して聞かせるつもりは無かったが、俺には、松下の姉の子供が殺された理由が分かっていた。
正春は、ひとりで行くのが耐えられず、道連れを探していたのだ。
そして、無垢な子供であれば、自分を裏切らないと思ったのにちがいない。
庭に連れこみ、一緒に遊んでやり、一緒に遠くへ行こうと誘ったのだろう。俺に、そう言ったように。
「家に帰りたい」
ところが、土壇場になって、子供たちは泣き出した――
真相などというものがあるとすれば、その程度のことだ。俺ひとりが殺されなかったのは、帰りたいと泣き出したりしなかったから。帰りたくなるような家が、無かったからだ。
その俺でさえ、約束の時間には現れず、正春を裏切った。
正春は俺を許していない。
試して、試して、俺から全てを奪いつくし、人形のようになるまで叩きのめさなくては、安心して俺を連れ去ることができないのだ。
母親と志村の二人くらいでは、まだ足りないと、正春がそう思ったのだとしたら。

手錠を外してくれた男に現在地を確認したところ、思ったより郊外に連れ出されていたことが分かった。正春が、意識の無い俺を車に乗せて運び出したらしい。
あのままマンションの部屋へ閉じ込めず、わざわざ移動させたのは、何のためだろう。
距離によって、予想外に俺が早く目覚めた場合の時間を稼ぎたかったのか。
日付はまだ変わっていないが、あれから半日経ってしまっている。
いったい、どれくらい時間を無駄にしたことか。

いや、と思い直した。
正春の目的は、ただひとつ、俺に思い知らせることだ。
俺にダメージを与えたいのだとしたら、間に合わないギリギリのタイミングで目撃させることを狙っているのだとしたら、まだ出し抜ける機会はある。あるはずだと、自分に言い聞かせた。
俺が正春だとしたら、どこを狙う?

「ねえ、顔色わるいけど、ホントに大丈夫?」
心配顔の運転手が、ミラー越しに話しかけてきた。
「大丈夫です」
顔を上げ、はっきりと頷いて見せる。
空腹で、胃が痛くて、体中が痛み、足が血だらけなのだが――もう少しくらいは、もつはずだ。




タクシーが俺の家の前にようやく滑り込んだのは、台風のせいで徐行しながら走行を続け、一時間ほど経ったころだった。
「永ちゃん?」
車を降りた瞬間に、いきなり腕をつかまれ、心臓が止まりそうになる。
「……おまえ」
どうしてここに、という言葉を飲み込んだ。
俺に負けないくらいずぶ濡れで、髪を額にはりつかせた志村が、くしゃりと顔を歪めて、笑った。
「よう、おかえり」
泣き出しそうな表情と、その言葉に、いきなり緊張がとけて、膝の力が抜けそうになる。

こんな時に、こんなところで。
ずっと待っているなんて、ばかじゃないのか。

そんな場合ではないのに、あんな別れ方をした後だというのに、どうしてだか志村の顔が懐かしくて、もう何年もこの顔を見ていなかったような気がして、言葉に詰まった。
何か言わなくてはと口を開いた瞬間、志村の向こうに、あるはずのない明かりが見えた。
明かりじゃない。家の中に灯っているあれは……
「え? 火事?」
俺の視線に背後を振り返った志村が、驚きの声をあげる。
いつの間にか、家の中から、火の手が上がっていた。
――やっぱり、これなのか。
予想していたことだというのに、血の気がひいた。
当時の週刊誌から得た知識によると、正春が自分の家を焼き払った時に使われたものは、時限式の発火装置だという。灯油を撒いての放火というような単純なものではなく、手の込んだ装置が発見されたのだそうだ。だから、火事で周囲が騒ぎ出すころには、正春は誰の手も届かない、遠くへ行っていたはずなのだと、そこには推測まじりに書かれていた。
「電話、貸せ」
そう叫んで、志村から携帯電話を奪い取り、探した始めたのは母親の番号だった。
あきれたことに、着信履歴にはカタカナの女名前が多すぎて、どれがそうなのか分からない。
「無いな。何て登録してあるんだ?」
「永ちゃん、119番を……」
「おい、母さんの番号は?」
苛立って叫ぶと、志村は誤解したようだった。
「永ちゃん、チナツさんのことは、今は――」
チナツか。
「はい」
チナツという名で登録された母親の番号を呼び出すと、何回かのコールの後、どこかよそよそしい声音で母親が出た。
「母さん?」
「……え? うそ、永一なの?」
「家にいるなら、すぐに、そこからすぐに出てくれ」
燃えさかる炎を眺めながら、出来る限り冷静に、そう言った。
「なんだこれ……?」
早く119番へ電話しろとさかんに俺の腕を引っ張っていた志村が、その火勢に驚いたように動きを止める。
もう間に合わない。
祖母の大事にしていた、平屋建ての小さな家が、燃えていく。
「ええ? 何言ってんのよ。いま台風が来てて、雨が……」
冷静になれと自分に言い聞かせながら、母親の高い声を遮った。
「いいから出て、瀬戸先生のところにでも行っててくれ。何も持たなくていいから、早く」
「なんなのよ、急にそん」
ぶつりと、まるで糸が切れるような音がして、いきなり通話が途絶えた。


目の前が暗くなり、俺は炎につつまれた家の前に、立ち尽くした。


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