O V E R

Scene21


頬に押し付けられた、床の冷たさ。
目覚めて最初に感じたのは、それだった。

暗い――どこにも光源がない、真の暗闇。
後ろ手が、何かで拘束されている。
どこからか監視されている可能性を考えて、うつ伏せの姿勢のまま、少しだけ手を動かして
みる。
手首に感じる金属のような硬さは……手錠だろうか。
頬に触れている床の質感は、フローリングの木の感触ではなく、もう少しざらつい
た……そうだ、これはコンクリートだ。
人間が五感から得る情報の8割は視覚からのものだというが、たとえ見えない状態に置かれ
ていても、経験から推測できることはある。
たとえば、この空気の匂い。
ずっと締め切っていた部屋に入った時のような、かび臭い、湿った空気のにおい。
暗くて、換気されていない、コンクリートの部屋――地下室なのか。

意識がはっきりしてくると、ひどい悪寒がして、体が震えた。
いったい、どんな薬を使われたのか、服を着せられているというのに、寒くてたまらない。
丸一日は何も食べていないはずの胃が、空腹ではなく、おかしな痛みを訴えている。
喉に感じた乾きに咳き込むと、今度はその咳が止まらなくなった。
弱りきった体が痙攣し、咳の発作がようやくおさまると、ぐったりと全身の力が抜ける。
ぼろきれのように暗闇に投げ出され、ぜいぜいと、浅い呼吸を繰り返す。

――ここに、助けは来ない。

その自覚が、静かに降りてきた。
志村にも母親にも、俺は自分から姿を消したと思われている。
一日や二日、病室に顔を見せないくらいでは、あの祖母が心配するはずもない。
無断欠席が続けば、担任の教師が不審に思うかもしれないが、それは何日か先の話だ。
松下が俺の失踪に気づくのは、もう少し早いかもしれない。それでも、ここを探し当てることは不可能だろう。

俺が消えたことを誰かが知るのは、早くても三日後。
助けは来ない。

意識が戻り、五分と経たないうちにそれだけのことを悟ってしまうと、不思議と静かな気持になった。
すべてが澄みきって、とても穏やかだ。
帰る場所も、方法も見つからない、今となっては。

ちゃり、と暗闇で何かが音をたてた。
自分の尻のポケットに、何かが入っている。身をよじって手の甲で触れてみると、どうやら家の鍵のようだった。とすると、この服は俺が着てきたものらしい。
携帯電話は取り上げたくせに、もう帰ることのない家の鍵を残しておくとは、ずいぶん皮肉なことをする。

暗い笑いがこみあげた。
それにしても、手間暇をかけたものだ。
俺ひとりくらい、うしろからバットで殴って気絶させ、車にでも押し込めれば、簡単に連れ去ることが出来ただろうに。

正春、と胸の中で呼びかける。
目を閉じた暗闇に浮かぶ、篠崎真理の姿ではない、記憶の中の、昔のままの正春に。

いつからこれを準備していた?
別人の名義で買い取った別荘に、雇った人間をおまえ自身のように偽装して住まわせ、これ見よがしに俺の資料を残して、逃走させる――松下和樹に近づいた時点から始まっていたのだとすると、数年。少なくとも、3年はかけているはずだ。
俺を観察し、弱味を見抜き、効果的なダメージを与え……絶望させる。
それだけのために、こんな手のこんだ真似をして。

俺が、誰に愛されたがっていたって?
誰を信じていたんだって?
馬鹿げたことを。


正春、おまえが奪ったりしなければ――

俺は自分のそんな気持にさえ、気がつかないでいたものを。


「……くそ」
勢いをつけて体を反転させ、仰向けになる。
悪態をつきながら体を起こすと、薬漬けになっていた頭がふらついた。
ここに助けは来ない。
誰も来ない。


――それがなんだ。


子供の俺が望んでいたのは、あの部屋に母親が戻って来て、俺の頭を撫でてくれること。
優しい腕に、よく我慢していたねと、抱きしめてもらうこと。
誰の邪魔にもならないよう、ひとの顔色をうかがって、望まれることだけを選び、先回りして。
そんな瞬間は来ない。
時間は戻らない。
それなのに、俺はずっと待ち続けてきた。誰も帰ってこない、あの部屋で。

母親じゃない。
誰より俺を見捨ててきたのは、俺じゃないのか。
自分に何ひとつしてやらなかったのは、俺自身じゃないのか。


志村に向けられた背中を思い出す。
何だって言えたはずだ。やり直せたはずだ。それなのに。
あの時、俺はあの小さな門を開けて、追いかけようとさえしなかった――


ガン、と重い音をたてて、足元に何かが転がった。
膝をついて匂いを嗅ぐと、灯油の缶らしい。ここは物置だろうか。
立ち上がってみたものの、後ろにまわった両腕が使えないことが、これほど不自由だとは思わなかった。
この地下室の広さをさぐることも出来ない。

なにか、この手錠を切る道具はないか。
出口はどこだ。

苛々しながら、体ごとぶつかっていった。積んである物が崩れ、裸足の足が何かを踏み抜いても、狂ったようにそれを続けた。
時間がない。時間がない。
ここから出なくては。
正春は、「ぜんぶ焼いたら」と言ったのだ。
何を焼くつもりだ。いったい、何を。


積んであるものを体当たりで叩き落としていくうちに、足が何かの段差を探り当てた。
階段だ。
数えながら10段上がると、行き止まりになっていた。
行き止まりの壁を後ろ手でさぐってみると、まわりのコンクリートの手触りとは明らかに違う、金属のひんやりした感触だった。
これが扉だ。

思い切り体当たりしてみたが、びくともしない。
再び丁寧に扉の周辺を探ってみる。どうせ暗闇で何も見えないので手探りだけが頼りなのだが、背を向けた姿勢で拘束された両手を使うのは、骨が折れた。だいたい、上のほうへはどうしても手が届かない。
気持だけが焦り、ねばついた汗が首筋を流れ落ちる。
無茶な体当たりを続けていたので、それはもしかしたら汗ではなく、血であるのかもしれなかった。
指先が、鍵穴のようなものを探り当てた。

……鍵穴? 扉の内側に?

不審に思って、指先でたどり続けると、小さな鍵穴の周りに、何か模様のようなものが彫ってある。
これは……円? ちがう、半円か? でも、この曲線は半円というよりは、もっと細くて、むしろ……三日月のような。

指先が、ぴたりと止まった。

まさか、そんなふざけた真似をするだろうか。
俺は今もまだ、試され続けているのだろうか。

慎重に、尻のポケットから、家の鍵を引きずり出す。
そこにあるのは、家の鍵だけではない。
正春からもらった、あの三日月形のキーホルダーには、まるでお守りのように、温室の小さな鍵がついている。
今はもう失われた温室の、小さな鍵が。


俺の震える手つきとは裏腹に、鍵は素直に鍵穴へ吸い込まれ、かちりと音をたてて、回った。

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