O V E R

Scene20


風だ。
風の音がする。あの日みたいな。


子供の俺は、温室の床に本を広げている。
高温多湿に保たれたこの場所では、紙が傷みやすいのか、本はすぐに新しいものに入れ替わった。
正春は写真がたくさん入った紀行本が好きで、温室の、名前も知らない赤い花の下で、北極の氷の世界や、オーロラの虹いろのカーテンを眺め、ふたりで世界中を旅する計画をたてた。
「永一はどこへ行きたい?」と聞くくせに、俺が何か言うと、「そこはイヤだ、こっちがいい」とわがままばかり言い出すので、架空の旅行の話は、いつも途中で終わってしまう。

その日の俺は、元気がなかった。
アパートの狭い四角い部屋で母親を待ち、浅い眠りに落ちては、物音に飛び起きるという夜が、ずっと続いていたせいだ。
いつも十日を過ぎる頃にはフラリと帰って来ていた母親が、まったく顔を見せなくなって、二週間が経っていた。
心配が不安になり、不安が諦めに変わり、期待するからがっかりするのだと、最後には厳重に鍵をかけて寝ることにして、ようやく少し落ち着けた。

母さんが置いていったお金がなくなったら、どうしよう。
子供はなんにもできないんだ。つまらない。

本を開いて、流氷の写真を眺めながら、
「大人になったら……行けるかな」
と呟いた。

こんなところに、行けるのかな。
母さんの帰ってこない、あの部屋を出て。
いつか遠く。遠くへ。

「……行けるよ」
外の風の音にかき消されてしまいそうな、俺の小さな呟きを拾い上げて、正春が微笑んだ。


どうしてこの男を、嫌いになったりできるだろう。
外の世界には、ここではない美しい場所がたくさんあって、いつか行けるのだと。
そう教えてくれたのは、正春だ。
それが、どうにもならない今をやりすごすための、逃避なのだと分かっていても。
それからも、ずっと。
本当はいつだって、その言葉は、俺を温めつづけてくれていたのだ――





風の音だ。
なんだろう、寒い。

寝返りをうつと、むきだしの白い肩が目に入って、ぎょっとした。
毛布をかけただけの、篠崎真理の裸の背中が、隣にあった。
さらさらの黒髪が、シーツに流れて渦をつくっている。
……そうだった。
自分が昨夜しでかしたことを思い出して、今度こそ目が覚めた。
寒いのもあたりまえで、俺は何も身に着けていなかった。
鈍い頭痛と共に、記憶が蘇える。
篠崎の住むマンションへ連れてこられ、部屋へ通されて、それから。
何度か吐いて、水を飲ませてもらい、介抱してもらった。それから?
どうしてこうなった?

すぐ隣で寝息をたてている篠崎真理を起こさないよう、慎重に体を起こして、部屋を見回した。
セミダブルサイズのベッドが入っていても余裕のある、ずいぶん広い寝室だ。
洒落た流線形のルームライトと観葉植物の鉢が置いてある他には、何もない、生活感のない部屋だった。遮光カーテンの隙間から、外の光がうっすらと差し込んでいる。
いったいどこで脱いだのか、この部屋には、服も下着も見当たらない。
行為の最中の記憶はあるのに、きっかけが思い出せないのは、何故なのか――

不安なまま動かした指先に、冷たい何かが触った。俺の携帯電話だった。
電源を入れて確認すると、メールが18件入っていて、その全部が志村からだった。
「連絡をください」という件名が、最後のほうは「今どこですか?」「どこにいますか?」という心配をうかがわせるものに変わっている。
開いて読む気にはなれず、電源を切ろうとしたところ、着信を告げるバイブレーションが指先を揺らせた。
液晶ディスプレイに出た名前は、「松下和樹」。
今となっては昨日よりずっと昔のことのように思える、須賀谷加奈子の訪問のために、番号を教え合っていた松下から、実際に電話が入ったのは、これが初めてだった。
松下と篠崎真理の関係が、実際にはどの程度のものなのかは知らなかったが、漠然とした罪悪感から、俺はためらった。
しかし、あの松下がたいした用事もなく、俺に電話をかけてきたりするだろうか。
「……はい」
思いきって、電話に出た。
篠崎に背を向け、出来るかぎり声のトーンと落として。
「どうした、大丈夫か? 具合でも悪いのか?」
意外にも第一声でそのような心配をされて、驚いた。
雑音の混じり方からすると、どうやら松下は外にいるらしい。
「大丈夫です」
「そうか。帰ったら、また電話する。念のため連絡しておこうと思って……実家へ行ってみたんだが」
「は?」
話が見えず、聞き返した。
「実家? 誰のですか?」
「真理のだよ。実家のこと、何か言いたそうにしていただろう。あれから考えて、そういえば真理の実家へ一度も行ったことがないと思って、朝からこっちに来てみた」
松下は、何を慌てているのか、いつもより早口だった。
「見るだけ、と思って。誰も住んでいないと聞いていたから。でも、人が出入りしていて……気になって、訪ねたんだ。名乗って、線香をあげさせてくれと言って、強引に上がりこんだ。両親と兄夫婦が住んでいたよ。事件のあとに産まれたらしい、子供もいた。もう幼稚園だ」
そこで松下は、息をついだ。
「仏壇のところに、家族で撮った写真も一緒に飾ってあったんだ。亡くなった子供が寂しがらないように、全員で撮った写真があった。真理はいなかった。でも真理の母親が家族全員だと言って――真理さんは、と聞いたら、これがそうだと指をさしたのは、全然ちがう顔をした女だった。真理じゃない」
「……は?」
意味が理解できず、聞き返す。

松下の話しぶりは性急で、すぐにはついて行けなかった。
「真理じゃないんだ。お母さんは、娘はずっと昔に出て行って、もう何年も顔を見ていないと言っていた。たまにハガキが届くだけだと。ハガキは、知っている真理の筆跡だった。でも、真理じゃない」
松下が、重ねて言った。
「真理じゃない。俺やきみの知っているあの女は、篠崎真理じゃない――調べて、また連絡する。注意してくれ」

電話が切られても、俺はその姿勢のまま、動けずにいた。
篠崎真理ではない?
それなら、この女は? 今後ろで寝ている、この女は誰だ?
「起きたの……?」
いつ目が覚めたのか、俺の背中に、気だるくもたれかかる体があった。
――まさか。
腹の奥が、冷えていくような感覚だった。
それなら、あれは? あの手紙は何だったんだ?
まさか、そんな馬鹿なことが――

「言わなかった?」
耳元に、冷たい吐息がかかった。
全身が凍りついたように、振り向くことが出来なかった。
俺の肩に置かれていた細い指が、その爪が、裸の皮膚に食い込んでいく。
「……一人二役で観客を騙すには、演出が、必要だって」
楽しげな笑いが耳元をかすめ、首筋に鋭い痛みとともに突き刺さったものがあった。
注射針だと気付くより先に、液体がグイと押し込まれた。
「やめろ!」
払いのけた時には、すでに針は抜かれていて、素早く飛びのいた篠崎が――正春が、注射器を片手に、嫣然と微笑んでいた。
流れるようなその手際は、優雅にさえ見えた。

「正春……?」
「遅いよ、永一」
かるく頭をふって長い髪を揺らし、篠崎真理の顔をした、正春が、声をたてて笑った。
女のものとしか思えない、甲高い笑い声で。


「どんな気分だった?」

「どうだった? 誰より愛されたかった人間と、誰より信じていた人間に――同時に裏切られるのは」


母親と志村の顔がつぎつぎに浮かび、そして消えた。
松下は何と言っただろう。
用意周到で、頭が切れて、執念深い人間だと。
俺は一度も疑わなかった。性別を変え、名前を変えて、被害者になりすまし、あの松下さえ味方につけて、俺をずっと試し続けてきた、この人物の正体を。


全身から力が抜け、保とうと思った意識を薬の力があっけなく奪い去って行き、すべてが暗転した。
「ぜんぶ焼いたら、行こうか」
耳元で囁かれた言葉の意味も、分からないまま。


最後に聞いたのは、風の音だ。
嵐がくる、と思った。


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