O V E R

Scene19


家の前に車を停めて、松下は「着いたぞ」と素っ気無く言った。
「……今日は、どうもありがとうございました」
複雑な気持で礼を言ったのは、まるで道案内をしなかったにもかかわらず、松下が迷うことなく真っ直ぐに、俺の祖母の家へと辿りついたからだ。
この男と篠崎真理は、正春だけでなく、俺のことにまで詳しいらしい。

見送ろうと門の前に立っていたところ、運転席のウィンドウが降りて、松下が顔を見せた。
「ひとつだけ、忠告しておく」
松下の眼鏡のフレームに、外灯の明かりが反射して、光った。
「白川正春は、執念深い人間だ。世間から完璧に姿を消してしまえるくらい用意周到で、頭も切れる。自分を傷つけた人間は絶対に忘れないし、どんな小さな裏切りも、決して許さない」
「……プロファイリングみたいですね」
会ったこともない正春を、確信ありげに語る松下に、つい苦笑した。
松下の反応は冷やかだった。
「そう、犯罪者だ。8人は手にかけている人殺し。その人殺しに執着されているというのがどういうことか、よく考えてみるといい」
黙り込んだ俺に視線を当てて、こう続けた。

「……命が惜しかったら、自分であの男をどうにかしようなんて、考えないことだ」

走り去る車を、俺は黙って見送った。
どうやら、あの男なりに心配して言ってくれた言葉だったらしいと気がついたのは、松下の車が見えなくなった後のことだった。



気が付くと、家の中で電話が鳴っている。
慌てて玄関の鍵を取り出し、差し込もうとして――扉に挟まれた封筒の存在に気が付いた。
――これは。
白い、何も書かれていないその封筒を手に取った瞬間、まるでそれをどこかで見張っていたかのように、電話がぴたりと鳴り止んだ。



白い封筒を握りしめて、俺は走っていた。
暗記していたその住所へは、元々行くつもりはなかった。
こんな手紙さえ来なければ、決して自分から行くことはなかったはずだ。
やめておけと、どこかで理性の声がする。そんなこと、いつも見ないふりをしてきたことじゃないかと。

やめておけ。
確かめてどうする。
でも。

目当ての賃貸マンションは、すぐに見つかった。
白い壁が真新しい、まだ新築らしい物件だ。
エントランスはオートロック式ではなく、扉から自由に入ることが出来る造りだった。
エレベーターが降りてこないことに苛立って、3階までの階段を駆け上がった。
「永一? なに、どうしたのよ?」
扉が開いて、まず気が付いたのは、香水の匂いだった。
この香り。俺が嗅いだことのある、この香り。
「ちょっと永一ったら! 入らないで。待ってよ、靴のまま――」
いきなりの俺の訪問に驚く母親を押しのけて、室内に足を踏み入れた。
広めの1DKは、テレビとソファーがある程度で、床には上着や雑誌が散らかっている。
母親の制止を振り切って、土足のまま奥の部屋へ進み、ベッドの布団をはぎとった。

うたたねでもしていたのか、眩しそうに目を細める、その男。
「何すんだよ」と抗議の声を上げかけて、俺と目が合った、その男。

「永――?」
志村の目が、信じられないものを見たかのように見開かれた。
そこにいたのは、志村だった。
いつものようにシャツをひっかけただけで横たわった、半裸のような、志村が。

(母親が最近付き合っている男が誰なのか、知っているか)
一通目と同じ筆跡で。
手紙に書かれていたのは、その、たった一行だった。
正春の嘲笑が聞こえたような気がした。

「……え? 知り合いなの?」
母親のその言葉に我に返って、ようやく事態を悟った。

母さんは、志村が俺の同級生だとは知らない。
志村は、これが俺の母親だとは知らない。
知らなかった。

「永一? ちょっと、どこ行くの?」
母親を突き飛ばすように、外へ飛び出した。
ふたりは、知らなかった――だから、何だ。
何だって言うんだ。笑って挨拶でもしろって言うのか。



走って、走り続けた。
どこを走っているのか分からなくなったころ、足がもつれそうになり、電柱に手をついた。
その手が、おかしなくらい、ぶるぶると震えている。
握ったり、開いたりしてみても、震えはまるで止まらなかった。

あの母親だって、馬鹿ではない。行きずりの男を部屋に引っ張りこんだりはしないだろう。
ということは、どこで知り合ったのかは知らないが、何回かは続いている関係なのだ。
そう考えて、吐き気がした。

母さんと、志村が。
志村と、母さんが。

「向坂? 向坂じゃない?」
よく知っている声がして、俺はのろのろと顔を上げた。
スーパーの袋を下げた篠崎真理が、驚いた顔をして、立っていた。



4年前のあの時、腹を刺された俺が考えていたのは、
「これで母さんもあの男と別れる気になるだろう」
ということだった。
母親には言わずにいたが、アパートで何度か顔を合わせたことのある、妻子持ちのその男が、俺は大嫌いだった。
ちょっと顔がいいだけの、うぬぼれた、嫌な男。
これで関係が終わるなら、ちょっとした傷くらい、安いものだ。
その後、祖母の家に行けと言われるとも知らずに、病院のベッドの上で俺はそんなことを考えていた。


「私のうち、この近くなんだけど……ちょっと、顔色真っ青じゃない。いったい、どうしたの?」
ふらついた俺を、篠崎真理の手が支えた。
どうもしない、と言ったかもしれない。言わなかったかもしれない。
それが誰でもよかったのだ。
母親と志村以外に人間になら、俺はこの世の誰にでも、ついて行ってしまっただろう。

期待しない。恨まない。
ちがう、そうじゃない。
期待しないことにした。恨まないことにした。
そうしようと、自分で決めたのだ。


ぞっとするほど、深く。
俺を振り返らない母親を、本当はどれほど深く、憎みつづけていたことか。

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