O V E R

Scene18


この町に住んでいたのは、一年に満たない、ほんのわずかな時間だった。

電車を乗りついで二時間ほどの近い距離でありながら、何度も行きたいと思いながら、今まで一度も来ることがなかった町だ。
そうではないかと予想はしていたが、駅のホームに降り立った時も、住んでいたアパートへの道をたどっている時も、記憶を刺激するようなものは何も無かった。
途中で見かけた、古びたクリーニング屋の看板も、昔からありそうな雑木林も、何ひとつ覚えていない。
子供だった俺は、ごく狭い世界で生きていたのだろう。
かろうじて思い出すことができる、母親と暮らしたうら寂しいアパートがあった辺りには、地図を片手に辿りつくことが出来たのだが、その周辺一帯は、小さな駐車スペースを備えた小ぎれいな建売住宅が立ち並ぶ新興住宅地へと変わってしまっていた。

ただ、高台に建つ正春の家へと向かう、ゆるやかな坂道だけが。
それだけが、記憶の中のままで。
あまりにも思い出そのままの様子に、木洩れ日のその先に、あの庭があるような気さえした。
正春の育てた花が咲き乱れる、天国のような、あの庭が。



「この須賀谷さんという人に、直接会って話を聞けませんか」
という俺の申し出を、たいした詮索もせずに受け入れて、松下はすぐに相手に連絡をとり、約束を取り付けてくれたのだった。
「駅前の喫茶店で、30分程度でよければ」と、須賀谷加奈子は面会を承諾してくれたのだと言う。
陽が傾きかけたころ、待ち合わせの喫茶店を見つけると、すでに松下が到着していた。
奥のボックス席のような場所から、かるく片手を上げて、「こっちだ」と合図を寄こす。
「早かったな」
腕時計にちらりと目をやって10分前であることを確認すると、スーツ姿の松下和樹は、挨拶がわりに頷いてみせた。
俺も感情表現の豊かなほうではないが、この数学教師の表情筋の凍結ぶりには、いっそ感心するほどだ。
それが、よくて休戦状態と言っていい、現在の俺との関係のせいであるのか、元々の性格であるのかまでは分からなかった。
想像しにくいが、たとえば篠崎とふたりきりの時には、この男でも声を上げて笑ったりするのだろうか。
そんなことを考えながら、「どうも」と軽く会釈をして、松下の隣へ腰を下ろした直後のことだ。
店員の「いらっしゃいませー」という声に迎えられ、須賀谷加奈子が店内へと入って来た。

「こちら、白川正春の知人の向坂。うちの学校の生徒です」
ごく当たりまえのように堂々と、松下が俺を紹介する。
それは「被害者の身内と加害者の知人が連れ立って話を聞きにくる」という不可解な状況の何の説明にもなっていないのだが、本人があまりにも落ち着きはらっているので、疑問を挟むほうがおかしいような気がして、「お忙しいところ、すみません」と立って挨拶するしかなかった。
「あ、ええ、どうも。須賀谷と申します」
雰囲気に呑まれた須賀谷加奈子が、目をパチパチさせて、裏返った声を出す。
ゆったりしたデザインの地味な色のワンピースを着た、50歳過ぎのその人を見て、似ているなと思った。
優しそうな目元も、世話好きそうな雰囲気も、瀬戸先生によく似ている。
今ごろ、俺の母親に付き合わされて祖母の病室にいるであろう瀬戸先生のことを、意識して頭から振り払い、改めて目の前の人を見つめ直した。
須賀谷加奈子。
正春がまだ6歳くらいのころ、白川家の通いの家政婦をしていたという女性だった。


「優しい子だったの。花が大好きで、花の名前をたくさん教えてくれて」
須賀谷加奈子が、そう言って微笑んだ。
「花の名前、ですか?」
「そう。お兄ちゃんに教えてもらったんだって、温室の花の名前を残らず教えてくれて。あの温室、たくさん花があったでしょう?」
俺は曖昧に頷いた。
「こわがりでね、台風の日には帰るなって泣いて、大変で」
「ご両親が忙しかったから、寂しかったのね。明日も絶対に来てねって、私が帰る時間になると、指きりして……」
須賀谷加奈子の思い出話の中にいるのは、俺の知らない、まだほんの子供のころの正春だ。
歳のはなれた兄が好きで、花が好きで、泣き虫で。
すぐに約束を求める、寂しがりやの。

「私ばっかり話しちゃって、ごめんなさいね。こんな話で、よかったの?」
別れ際に、須賀谷加奈子は申し訳なさそうな顔をして、こう言った。
「事件のころのことは、全然知らないのよ。正直言って、信じられないくらい。お役に立てなくて悪いんだけど……」
いえ、と俺は言った。
「参考になりました。ありがとうございます」

店の前で別れた須賀谷加奈子は、何度かこちらを振り返り、そのたびに頭を下げながら、去って行った。
「……どうして、あの人なんだ?」
ずっと黙っていた松下が、ふいに口を開いた。
「話を聞くなら、もっと他の人間がいたはずだ」
後ろに立つ松下の顔は見えないが、いつもどおりの無表情に違いない。
秋の夕暮れ時。気持のよい風が吹いて、通りを行く家路を急ぐ人々も、どこか幸せそうに見える。
どこでどう間違えて、正春は、こういう人たちの一人になりそこねてしまったのだろう。

「もっと他の、たとえば――兄のしたことを、知っていそうな人間ですか?」
振り返ったのは、松下の顔を見てやりたかったからだ。
「知っていたのか?」
松下は、ほんの少しだけ眉を上げた。

「知りません。でも、先生はそう結論したはずだ。だから資料のその部分を削除した。正春が虐待を受けていた相手は、両親のどちらかではなく、6歳ちがいの兄だった。もしかしたら、性的な虐待だったのかもしれない。兄の死は、正春が手を下したものだったのかもしれない。あれだけ詳しい取材をしておきながら、兄に関する部分だけが抜け落ちているのは、おかしな話だ」
松下は、黙ってそこに立っている。

問題は、何が書かれていたのかではなく、何が隠されたのかということだ。
「先生は、ほぼ全てのことを知っている。だいたいの想像はつく。だから、俺が知りたいのは……そういうことではないんです」
俺の言葉は、松下に通じているのだろうか。
分からなくても、無理はない。
俺は松下のように、正春を捜し出したいわけではない。どのようにして人殺しになったのか、知りたいわけでもない。
真相など、どうでもいい。
俺が知りたいのは、もっと違う――正春自身でさえ、知らないようなことなのだ。
どこか知らない場所で、何かを始めている正春に。
俺に何かを仕掛けようとしている、正春に。
秘密を暴くのではなく、説得するのでもなく。
そんなやり方ではなく、俺にしか出来ない……戦いかたがあるはずなのだ。
「見つかったのか?」
静かな声で松下に尋ねられ、我に返って「え?」と聞き返した。
「その、知りたいことは、あの人から見つかったのか?」
そんなことを聞かれるとは思わなかったので、俺はしばらくぼんやりとしてしてしまい、
「……たぶん、少しだけ」
かなり時間がたってから、そう答えた。




車で来ていた松下が乗っていけというので、断る理由も見つけられず、俺は助手席におさまっていた。
帰りに寄りたいところがあったのだが、こうなってしまうと言い出しにくい。
「北軽井沢に、白川家が持っていた別荘がある。白川正春の兄は、そこで死んでいる」
松下は、淡々と説明を始めた。
冬休みのこと。
兄弟だけで先に来ていた別荘の敷地内で、明け方、兄が死体となって発見された。凍死だった。
冬場には−10℃になる土地だ。薬を大量に服用し、意識不明の状態で裸に近い格好で転がっていれば、凍死もする。
弟は、兄がいなくなったことには気付かなかったと証言している。
兄の自宅の部屋からは、かかりつけの医者から集めたらしい薬が大量に発見され、全ては過剰摂取による事故死として処理された。
「兄のほうは、かなり変わった人物だったらしい。おそろしく頭がよくて、不安定で、残酷なところがある……どうも、あの家系にはそういう人間が多いみたいだな。そう考えると、精神的というよりは、機能的な疾患のような気がするんだが」
ハンドルを握る松下は、考えこむような表情を見せた。
「別荘のほうは、それから売りに出されて、買い手がなかなかつかなかった。白川正春の事件があってからは、余計にだな」
それが、と松下は続けた。
「三年前に買い手がついた。別人の名義を使ってはいたが、買った人間は白川正春らしいと、そう知らせて来たのが、真理だった」
松下が、初めて「真理」と篠崎の名を呼ぶのを聞いて、鼓動が跳ね上がった。
「その時は、結局あの男を捕まえることはできなかったんだが、同志が出来たみたいで嬉しかった。長い間、一人で調べ続けていたから……。それが、最近は、彼女が何を考えているのか、何にこだわっているのか……よく分からない」
最後のほうは、呟きのようになっていた。
俺は松下の独白よりも、帰りに寄ろうと思いながら、行くことができなかった場所のことが気になっていた。
「この辺りには、篠崎先生の実家がありましたよね」
言葉を選びながら、そう言ってみた。
松下は物思いに沈んだままの様子で、こう言った。
「ああ、でも、もう誰も住んでいないと聞いている。実家がどうかしたのか?」


正春の住んでいたこの町には、篠崎の実家もある。
昼間遠目に見た篠崎の実家の前には、業務用らしきバンが停まっていて、人がたくさん出入りしているように見えた。
「実家にいるのは、父だけ。仕事はもうしていない」
篠崎は、何故そんな嘘をついたのだろう。


このささやかな疑問のことは、すぐに忘れてしまった。
帰り着いた家には、正春からの二通目の手紙が待っていたからだ。

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