O V E R

Scene17


一晩中続いた頭痛と吐き気は、朝になると落ち着いて、俺は何事もなかったように登校した。
ところが、教室で席を立った瞬間に、ぐるりと世界がまわって見えて、立っていられなくなったのだ。
誰にも気付かれないように教室を出て、自力で保健室へ辿りついたものの、結局は一日の半分を保健室のベッドの上で過ごすことになってしまった。
しばらく寝かせてもらっているうちに、めまいはどうにか治まったのだが、手足がだるく、起き上がる気力がどうしても湧いてこなかったのだ。
――情けない。
祖母が病気に倒れてからというもの、健康管理には人一倍気をつかっていたつもりだった。
昨夜からの突然の不調に、これといった原因も思い当たらず、こんな所でのんびり寝ている場合ではないのにと苛々しながら天井を睨みつけていたところ、いきなりカーテンを開ける音がした。
俺はぎょっとして首だけ起き上がり、その侵入者を見た。

「連絡がとれた」
現れた松下に、何の前置きもなく無表情に用件を切り出され、少しだけ笑ってしまう。
「……なんだ?」
「いえ、助かります」

青白い顔でベッドに横たわる俺の姿を見ておきながら、何の気遣いの言葉も言おうとしない松下の態度に、かえって救われたような気がして、思わず笑ってしまった。乾いた笑いだった。

心配されるより、放っておかれたほうがいい。
どうせ俺は、何を聞かれても、どんな状態であっても、「大丈夫です。たいしたことありません」としか言えない人間なのだから。

背後の様子をうかがい、席を外している養護教諭がまだ戻らないことを確かめながら、松下は言った。
「電話で話したら、明日の夕方なら都合がいいそうだ」
「そうですか……よかった」
相手に断られる可能性も考えていたので、それを聞いて、ホッとした。
「向こうに、どういうふうに説明したんですか?」
そう言って、顔をしかめながら俺が体を起こすのを見たせいだろう。松下和樹は眉をひそめた。
「どうって、そのまま言っただけだ。――明日、本当に行けるのか?」
俺は頷いて、そしてやはり無意識のうちに、こう言っていた。
「大丈夫です」



どうにかして起き上がれるようになったころには、すでに放課後になっていた。
教室へカバンを取りに戻ると、寺田亜紀と数人の生徒が学祭の準備らしきことを始めていた。
机を移動させ、床いっぱいに広げられた色を塗られた板は、大道具だろうか。
「あれー? 永一くん、どこにいたのー? 帰ったかと思ってたよ」
額の汗をぬぐいながら、刷毛を手にした寺田亜紀が駆け寄って来る。
「何か、手伝おうか」
忙しそうな様子を見てしまうと、のんきに寝ていたことに気がひけて、そう申し出た。
「えー、いいって。約束だもん」
ところが寺田亜紀は、笑って手を振る。
「……約束?」
覚えのないことを言われて、俺は聞き返した。
「え? だってほら、永一くん、お祖母さんが入院していて忙しいから、お芝居以外のことは絶対に絶対にさせるなって……条件、で……」
俺の表情を見て、寺田はハッとしたようだった。
「あ……えっと」
「その話……」
「わー! ダメダメ。これナシ。ナシにしておいてー!」
寺田が真っ赤になって、あわてふためき、腕を振り回した。
その様子を見て、この俺にさえ察しがついた。
そんなことを言い出して、この寺田亜紀に約束を取りつけるような人間は、ひとりしかいない。
「志村が、何て?」
寺田亜紀は困りはてた様子で、頭をかきながら「言わないでよー」と頼りない声を出した。
「……永一くんは、疲れているから、絶対ムリさせるなって。それで、『これ永ちゃんに言ったら殺す』って……」
「こ、殺す……?」
俺は耳を疑った。
なんだその発言は。小学生か。
「本当に言ったものー。見て見て、これ」
そう言って寺田が持ち出して来たのは、俺が最初に見せられた、劇の企画が書かれたノートだった。
配役の俺の名前の横に、「他の係はさせません(寺田)」と書かれている。
「そう書いて署名しろって、絶対引き下がらないんだもん」
「それ、いつの話?」
ノートを手にしたまま、俺は聞いた。
「え? 劇の話して、永一くんがやるって言ってくれた、あの後すぐかなあ……」
寺田亜紀が、思い出すように視線を浮かせた。

(――断われよ)

あの時、志村はしつこく言っていた。
集団行動が嫌いだからだろうと思っていた。
俺が引き受けたせいで自分も面倒なことに巻き込まれて、それが気に入らないのだと。

「寺田さん」
「えっ? なに?」
いきなり呼ばれた寺田亜紀は、動揺したように俺を見た。
「明日、ちょっと用事があって学校に来られないから、台本の読み合わせ、来週でいいかな」
「ああ、うん。まだ時間あるし、それはいいけど……」
「ごめん。それじゃ」
戸惑ったままの寺田亜紀にノートを押し付けるようにして、俺は教室を出た。
息苦しくて、じっとしていられなかった。
どこかへ行ってしまいたかった。ここでなければ、どこでもいい――どこかへ。

「……ねえ!」
階段を降りていたら、上のほうから声が降ってきた。
見上げると、寺田亜紀が手すりから身を乗り出している。
走って追いかけて来たらしく、息をきらせて、こう言った。
「志村と、仲直りしてあげて」
俺は驚いて――そして、こわばった顔をしたのだろうと思う。
寺田は急に不安そうな表情になった。
「……ダメ?」
「してみるよ」
俺はどうにか微笑んで見せた。
そんなことは不可能だと知っていたが、今この瞬間は、この心優しい同級生を安心させることのほうが、大事なことのような気がしたからだ。
「来週、ぜったい練習しようね!」
それなのに、安心させるどころか、必死の表情で念を押されてしまったのは、何故だろう。俺の何が、寺田を不安にさせたのだろう。
寺田亜紀は、いつまでも手を振っていた。


仲直りなんて、出来るわけがない。
俺は自分が疲れきっていることにさえ、気が付かない。
たいしたことはない、平気だと、自分に思い込ませ、いつのまにか大丈夫にしてしまう。

俺は何回、志村の手を振り払ってしまったのだろう。
あんなふうに背を向けられてしまうまで、俺はどれくらい、おまえには関係ないと言い続けてしまったのだろう。

あんなに遠慮のない奴が、俺に気付かれないように、気をまわしたりするなんて。
ずっとそんなことを、させつづけていたなんて。


校門を出て、振り返る。
自分から来週の約束をしておきながら、それが果たされることがないような気がして、不安になった。
その予感は確かに現実となった。
台本の読み合わせどころか、俺はここへ戻ることさえ出来なかったのだ。

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