O V E R
Scene16
祖母のこの家には、胸のあたりまでしか高さのない、形ばかりの小さな門がついている。
正春の名を叫んで、つかんだその鉄の扉は、がしゃんと大きな音をたてた。
月の出ていない、薄暗い夜だった。
外灯を背に立っている志村の表情は、陰になっていて、まるで見えない。
俺は今、どういう顔をしているのだろう。
志村には見えているはずの自分の表情さえ、分からなかった。
「……それ、どこの誰?」
重ねて問いかけるそれは、いつもの志村らしい、のんびりした口調だった。
それなのに、何故か静かな怒りの気配を感じて、俺は反応も出来ずにただ立っていた。
はっきりと追い詰められたような危機感があり、頭では、今ここで言わなくてはいけないのだと分かっていた。
昔の知り合いなのだと。
俺に、とても優しくしてくれた人なのだと。
今もどうしているのか気になって、忘れることができない人の名前だと。
口を開いて言おうとしたのだが、どうしても声にならない。
自分自身にとっても、衝撃だった。
言えない。
たったそれだけのことが、言えない。
「……篠崎センセイに、言われたことがあってさ」
志村が先に口を開いた。
風にのってようやく聞き取れるくらいの、小さな声だった。
「その時は、ぜんぜん何のことだか分かんなくて、ずっと忘れてたんだけどさ……。言われたんだ、『向坂は義理堅いから、志村のことは一生、名前で呼んだりしないと思う』って」
「篠崎が……?」
言われた内容を理解するまで、おそろしく時間がかかった。
俺が何だって?
どういうつもりで、篠崎は志村にそんな余計な――
「なに言ってんだろと思ってさ。呼び方なんて、そんな小せえこと、どうだっていいじゃん? だから俺は気にしてなかったんだけど」
志村が、小さく笑ったような気配がした。
見えないのに、何故か寂しそうな笑いだと思った。
「永ちゃんにとっては、小さいことじゃなかったのかもな……」
そのまま背を向けられて、俺は焦った。
待ってくれ、と焦ったのだ。
焦って、きっと最悪な反応をしたのだと思う。
「待てよ! 授業には来るんだろ? このままだと出席日数、足りなくなるんじゃ――」
声を張り上げる俺に、志村は振り返らずに、こう言った。
「それ、永ちゃんに何か関係あるのか?」
冷たい鉄の扉をつかんだ手から、力が抜けた。
志村の後姿は、通りを曲がってすぐに見えなくなった。
俺が悪い。
きっとこれは、俺が悪いのだ。
篠崎が言ったことは、間違っていない。
正春が起こした事件とも関係ない。どうしても言えないのは、俺自身のせいなのだ。
たいしたことはないと言い聞かせて、切り捨てて。
なにもかも割り切った大人のつもりで、
誰とでも、上手くやっているつもりでいて、俺は。
自分の気持ひとつ、誰にも打ち明けることが出来ない俺は、あの頃とどこが違うんだろう。
正春だけが友達で、世界の全てだったあの頃から、俺は少しも変わっていないんじゃないか。
確かなのは、志村との間にあった、何かを失ってしまったことだ。
最低なのは、それが何だったのかも分からず、こうして失うまで、手にしていたことさえ気が付かないでいたことだ。
頭がズキズキと痛み、足元がふらついた。
家の中で、電話が鳴っていることに気が付いて、ようやく顔を上げる。
未練がましく志村の消えた路地をもう一度見たが、そこにはもう何の影も無かった。
「なによー、もう寝てたの?」
病院からの連絡かと慌てて受話器を取ってみたら、母親のあっけらかんとした声がした。
「寝てないよ」
「もう、もっと元気な声出しなさいよ」
さんざんこちらの連絡を無視しておきながら、深夜に電話をかけてきて、自分勝手なことが言えるものだ。
慣れているはずの母親のそんな態度に苛立ちを感じて黙ってしまったのは、昼間の瀬戸先生との会話のせいかもしれないし、志村とのやりとりのせいかもしれなかった。
「永一、聞いてる? だから、明後日の土曜日に病院に行くから、あんたも来てよ」
「俺は……」
頭が痛い。
「俺はいいよ。瀬戸先生がいるんなら、三人も行く必要ないだろ」
「やだ、来てよ。あんたがいなかったら、あたしとあの人で、話になんかなるわけないじゃない」
あの人、というのは祖母のことだ。
――あの人は、あたしのことが嫌いなの。
そんな恨み言を、俺は何回聞かされたのだろう。
「駅で待ち合わせして、病院へ行くから、ちゃんと来てよ。時間は明日また電話するから」
「俺はいつも行ってるからいいよ。土曜は他に行くところが……」
あるのだと、ズキリと痛みが走って、最後まで言えなかった。
この頭痛は、なんだろう。
さっきから、頭がひどく痛い。
「なによ、他にどこに行くって言うの。人の気も知らないで、あたしはね」
「……だから、行ってるって言ってるだろ」
言うなと理性の声がしたが、疲れきっていた俺は、母親の言葉を遮った。
「俺は毎日毎日、病院へ行ってるんだよ。母さんがどこかで遊んでいるときも、連絡が無いときも、俺はいつも行ってるんだ。母さんこそ、いつまでも好きだの嫌いだの、子供みたいなこと言ってないで、いいかげんに……!」
畳み掛けるような俺の言葉に、受話器の向こうで、母親が息をのむのが分かった。
頭が痛い。吐き気がする。
後悔と痛みで、急速に自分の語気が弱くなっていくのを感じた。
「……もう、いいかげんにしてくれ」
受話器を置く前の弱々しい捨て台詞は、母親の耳に届いたのだろうか。
その夜、俺は何度か吐いた。
「どいつもこいつもクソなんだ。死んじまえばいい」
出会ったころの志村は、そんなことばかり言っていた。
「兄貴たちもクソだし、親父なんてもっと偉そうなクソで、でも一番クソなのは、クソババアだな。泣いてばっかりいて、ホントは自分が可愛いだけのくせしやがって……」
くだらねえ、と幼い顔で吐き捨てる。
推測するに、志村には出来の良い兄弟がいて、父親の権威の強い家庭で、母親は夫に従うタイプの大人しい妻であり、反抗的な志村を庇ってはくれないらしい。
よくある話で、特別に問題のある家庭とも思えなかったが、思春期の本人にとっては不満があるのだろうと黙って聞いていた。
そのうち、俺のうちの様子を不思議に思ったらしく、
「おまえんちは、なんでばあちゃんしかいないの?」
「なんで表札が安斎なの?」
「なんで一年遅れてんの?」
と、遠慮もなく聞いてきた。
「父親と母親は別のところに住んでいる」
「表札が安斎なのは、祖母の持ち家だから」
「学校に通っていない時期があったから」
その質問に、俺は答えにもならないような簡単な事実でだけ答え、多くは語らなかった。
志村はひどく驚いた様子で、それ以上追求することもなく、以来、自分の家族の悪口を言うこともなくなった。
それでも時々、父親に殴られて変色した顔で現れるので、手当てをしてやりながら、俺はこう言った。
「ちょっとは大人になって、親父さんの言うこと聞けないのか?」
「俺は子供じゃねえよ」
ふてくされて言う志村の子供っぽさに、つい笑った。
「なんで笑うんだよ」
「笑ってない」
「笑ってるじゃんよ。俺はどうせ子供だよ。でも子供だって、人格くらいあんだよ」
むっつり言う志村の言葉に、意表をつかれ、俺は少しだけ手を止めた。
吐きながら思い出すのは、そんな過去のことばかり。
胃の中には何も無く、胃液しか出なかった。
明日はきちんと食べて、体力を戻さなければと思った。
母親に他に行くところがあると言ったのは、嘘ではない。
会って話を聞きたい人物がいる。ただし、それには松下の協力が必要なのだ。
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