O V E R

Scene15


目を開けると、泣きはらした目をして、母親が覗きこんでいた。
病院のベッドに横たわってはいたものの、刺された脇腹の傷はたいして深くなかったらしく、ひきつれた感じがするだけだった。
「……あんた、お祖母ちゃんちに行く?」
母親が、そう言った。

もう4年ほど前になるが、脇腹をナイフで刺されたことがある。
当時、中学生になったばかりの俺が学校から帰ってくると、アパートの前は人だかりが出来ていて、悲鳴が聞こえた。
刃物を持った中年女性が、半狂乱になって泣き叫び、うちの母親を追い掛け回している。

母親が付き合っていた男の奥さんである、その人が、本気で夫の浮気相手を刺そうとしていたとは思えない。
止めに入った俺の脇腹に刃物が吸い込まれていったのは、うちの母親が暴れて俺を突き飛ばしたせいで、ナイフを手にした本人が、一番おどろいた顔をしていたように記憶している。

とにかく俺は刺されてしまい、たいした刺し傷でもなかったのだが、見物人が警察に通報してしまい、救急車が到着して、とんでもない大騒ぎへと発展してしまった。
事態に動転した母親は、例によって瀬戸先生へ助けを求め、「千晶ちゃん」に甘い瀬戸先生もさすがにこれを祖母に黙っているわけにいかないと思ったようで、すぐに祖母が鬼のような形相で現れて、凄い勢いで娘を叱りとばした。
「……子供を振り回すなって。永一はおもちゃじゃないんだから、あちこち連れまわすなって。あんた、転校とか、イヤだった?」
ハンカチをいじりまわしながら、母親が小さな声で問いかける。
ひとつの場所に留まることのできない母親は、ほぼ半年に一回、早ければ三ヵ月で住むところを転々としていたので、それに従って俺も転校を繰り返していた。
それを知った祖母が、俺を引き取ると言い出したらしい。

「べつに。慣れてるし」
俺の気の無い返事に、母親は口をとがらせた。
「だって、あんた、友達連れてきたことないじゃない」
「それは……」
転校を、嫌だと思ったことはない。親しい友達なんてものも、最初からいなければ、欲しいと思ったりしないものだ。
転校生はお客さんだ。
なんとなく珍しがられ、なんとなく丁寧に扱われ、俺もそれが短期間だと承知しているから、人当たりの良い子供として振舞うことが出来たし、あまり普通とは言えない家庭環境を周囲に悟られることなく、教室で過ごすことができたのだ。
同じ学校にずっと通い、まともな人間関係を築けと言われるほうが、むしろ苦痛だ。
祖母の家での落ち着いた生活を想像してみても、楽しい気分にはならなかった。

「お祖母ちゃんちに行くんなら、それでいいよ。……永一が決めて」
目をそらして、母親が言う。
……母さんが望んでいる答えは、なんだろう。
あれだけ反発している祖母に借りをつくるなど、普段のこの母親からは考えられない行動だ。
失踪状態の父親と離婚しないのだって、結婚を反対した祖母に対する意地ではないかと思うほどなのに。

俺と暮らすのが、負担なのか。
俺がいなければ、もう少しまともな男と付き合えて、幸せになったり、できるのか。
俺がいなければ。

その考えが、重いかたまりとなって胸をふさぎ、行きたくないという言葉は声にならなかった。
「……行くよ。お祖母さんとこから、学校へ通う」
それでいいんだろ? と言いたくなるのを、ぐっとこらえた。
「そっか、分かった」
母親は、寂しそうに目を伏せた。
「あんた、あたしと違って勉強できるもんね。ちゃんと中学通って、良い高校に行けたほうが……あんたのためだもんね」

そんな顔、しないでくれ。
俺のためだなんてこと、言わないでくれ。寂しそうな顔だけ、しないでくれ。
俺のために、変わってくれる気もないくせに。

そう口に出して言えたら、よかったのかもしれない。
だけど、そんなふうに母親をなじってしまえるほどには、その愛情を信じてはいなかった。
気まぐれに構われ、放置され続けて育ってくれば、分かることもある。
母親は、俺が可愛くないわけではない。だけど、一番は自分で、二番は恋人で……子供は、次かその次あたりの存在なのだと。



俺はすぐに退院して、祖母の家へと移り住んだ。
祖母はきちんとした生活人で、今までのように誰かの世話をする必要もなくなり、俺は毎日をぼんやりと過ごしていた。正春のことを調べ始めたのもその頃で、結局のところ時間が余っていたせいなのかもしれなかった。

志村の名は、その中学へ転入した当初から知っていた。
なにしろ、授業のたびに連呼されるのだ。
「志村……志村正晴! またいないのか?」
怒る教師に
「さっき帰っちゃいましたー」
と答える生徒。
何回となく繰り返されたやりとりのせいで、口をきいたこともないその同級生は、俺の中ではすっかり有名人になってしまっていた。

学校の裏の林を通りぬけると、図書館への近道がある。
放課後になると、町の大きな図書館へ通って正春に関連した記事を検索するのが日課になっていたので、その日もそこを通りかかったのだ。
林の中に、数人の影を見た時、まずいところへ来たかなと後悔した。
だいたい中高生くらいの背格好の集団がいて、誰かを殴っていた。
見たところ、それはケンカではなく、一方的なリンチのようだった。制服姿も何人か混ざっていて、同じ中学の上級生のようだ。
……困ったな。
そう思った次の瞬間には、身を隠すところもない林の中で、俺の姿は向こうに見つかってしまったらしい。
「おい」
「誰かいるぞ」
「あいつ……」
緊張した空気に、囁き声が広がった。
どちらの方向へ逃げるべきか考えているうちに、おかしなことが起こった。
「まずいぞ、逃げろ!」
え? と思う暇もなく、集団は四方にバラバラに散って、あっという間にいなくなった。
何が起こったのか分からないまま、呻き声のするほうへ進んでみると、そこに倒れていたのは志村だった。
私服姿で、泥だらけ。小さい体を丸くして、腹をおさえて、呻いている。
「いてえ……」
「蹴られたのか?」
かがみこんで顔を見ると、目を開けた志村が、ぎょっとしたように体を引いた。
顔も殴られたのか、鼻血が出て、まぶたの上が腫れている。
幼い顔立ちが、ダウンしたボクサーのような、ひどい人相になっていた。
「おまえ……おまえ」
「向坂だよ。同じクラスの。起きられるか?」
「さわんな!」
肩にかけようとした手を払いのけられて、驚いた。
脅えた目をした志村が、精一杯の虚勢を張って、こちらを睨みつけている。

そのころの一年の差というのは、大きいものだ。
この年下の小さな同級生にビクビクされて、小さな子供に嫌われたような気がして、俺としては実はかなりのショックを受けたのだった。
「……なんにもしないから、ほら」
なるべく脅えさせないように、そっと手を差し出してみる。

正春はどうしてたっけ。どうしたら恐がられないで済むだろう。
表情かな。笑ったりすればいいのか?
 
「おまえ……おまえ」
志村は、地面に尻をついたまま、ずるずると後退して、こう叫んだ。
「そんなこと言って、だっておまえ、傷害事件を起こしたんだろ!」
他に誰もいないので、この「おまえ」とは俺のことに違いない。
違いないのだが。
「しょうがい……?」
「人刺したって、腰にそのときの傷があるって、そんで少年院にいて一年遅れたって……!」
尚も後ろに逃げながら、志村が言いつのる。
「そういう話になってたのか……?」
だから、あの集団も逃げて行ったのか。
よくよく考えてみると、確かにクラスでも遠巻きにされているような気はしていた。
転校生として生きてきて、あたりまえのようにクラスで浮いてきた俺は、その空気の微妙な違いに気がついていなかったのだ。

「刺してない。刺されたけど」
他に言いようもないので、事実を言ってみた。なんだか間抜けなセリフだった。

志村とは、そんなふうに知り合ったのだ。


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