O V E R

Scene14


「約束してくれる?」
篠崎真理が、俺の腕にそっと手をかけた。
間近に見る篠崎の肌は綺麗で、ふわりといい匂いがする。
開け放した廊下の窓から吹き込んだ風に、長い髪が乱れて、俺の頬をくすぐった。
そんな接触にうろたえて、そして。
いままで形にならなかった疑惑が、ゆっくりと浮かびあがってきた。

意味をなさない、何の為に書かれたのか分からない、あの手紙。
友達だと言いながら、おまえの身の回りのことなど知っていると暗にほのめかした、あの手紙。
あの手紙は、この瞬間を予期して書かれたものではないのか。
正春が知りたかったのは、手紙が来たのだと、ここで俺が篠崎に打ち明けるかどうかなのでは。

守ってあげるという篠崎を信じるのか、もうひとりの教師に注意しろという自分を信じるのか……それが知りたかったのか?
たったそれだけのために、正春は、危険を冒してわざわざ実名で手紙を送リつけて来たのか?

馬鹿なやつ。
なんて馬鹿なやつなんだ。

「向坂? どうして黙ってるの?」
篠崎の声が遠くなり、耳元で、ここにはいない、いるはずもない正春の声がする。

――さあ、選べ。

一瞬、きつく目を閉じた。
何の関係もないはずの志村の顔が、浮かんで消える。
篠崎に何か大事なことを聞かされた気がするのに、それが何なのか、もう思い出せなかった。
正春に試されたのだという自覚が、冷たい水のように、冷え冷えと胸の奥に広がっていく。

悲しい、と思った。
正春に試されたことが悲しい。信じてもらえないことが悲しい。
どこか知らない場所で、そんな馬鹿げた策略を練っている正春の姿を思うと、悲しかった。

ひとつだけ確かなことがある。
どこでどういう手段を使ってかは知らないが、それがいったい何になるのか知らないが。
正春は、俺がこれから口にする言葉を、絶対に手に入れる。


「約束は、できません」
ようやく、それだけを口にした。
「……どうして?」
篠崎の切れ長の目が、すっと細められる。
「できません」
馬鹿みたいに繰り返したのは、他に言える言葉がなかったからだ。
正春のために身内を失った篠崎真理の気持を、必要以上に傷つけるつもりはなかった。

「……あの男がこわい? まさか、何か義理があるとでも?」
切りつけるような篠崎の鋭い口調に、目を伏せる。
黙り込んだ俺の腕を、篠崎は爪が食い込むほどきつく掴み、それから離れた。
そこにはもう、先刻までの気さくな教師の姿はなく、冷ややかな目が、俺を刺すように見つめていた。
「それとも、あの男に同情でもした? 彼がつくったあの資料、読んだんでしょう?」
篠崎が言っているのは、松下の資料のことだ。
「聞いたんですか」
「彼にじゃないけどね。学校なんて、誰かがどこかで見てるのよ。馬鹿みたい、何年もかけて、あんな取材して……今じゃ本が一冊書けるくらい、あの男に詳しいんだから。まあ、なかなか面白かったけどね。虐待された子供は、虐待を繰り返すってところかしら。それが憐れ? 可哀そうってわけ?」
篠崎は髪をかきあげ、馬鹿にしたように俺を見た。
「あの内容は、関係ありません」
俺は機械的にそう答えた。

あの内容は関係ない。あの手紙も関係ない。
何があっても、なくても、俺は正春を誰にも売らないし、裏切らない。
正春に会いたい。会って話がしたい。
漠然とした願望でなく、切実にそう思ったのは、これが初めてだった。


「へえ、じゃ何? どうしてあの男を庇うの?」
俺の反応のなさに苛立ったのか、篠崎の声が高くなった。
「ああ、いたいた、永一くん」
そこへ重そうに体を揺らして現れたのは、なんと瀬戸先生だった。

「捜したのよ――あら、どうかした?」
俺と篠崎の間にある空気に何かを感じ取ったらしく、瀬戸先生は目を見開いた。
思わず黙り込んだ俺にくらべて、篠崎真理の反応は素早かった。
「じゃ、向坂君、そういうわけだから、よろしくね」
教師の顔に戻って微笑みさえ浮かべると、「失礼します」と瀬戸先生に会釈して、急ぐ様子もなく悠然と去って行く。
「どうかしたんですか?」
気を取り直して瀬戸先生に向き直ると、「どうかしたじゃないわよ、もう」と手にしたハンカチで額の汗を拭きながら、いつになく興奮した様子の瀬戸先生に睨みつけられた。
「千晶ちゃんから電話がきて、聞いたわよ。安斎先生がそんなに悪かったなんて……千晶ちゃんが帰ってないだなんて、知らなかったわよ。そんな大変なこと、どうして言ってくれないの」
「かあさ……母から、電話があったんですか?」
母親の名が飛び出して、俺はぎょっとした。
「あったわよ。千晶ちゃんたら、かわいそうに、電話口で泣いちゃってね。とにかく、私が千晶ちゃんと一緒に病院に行くから……」
思い出して涙ぐむ瀬戸先生を見て、俺は舌打ちしたいような気分だった。
いつもこうだ。
また、瀬戸先生に頼ったのか。




「医者になりたくないって、言ってましたね。小学校の先生になりたいって」
そう語っているのは、正春の高校の時の担任教師だ。


その夜、いつものように病院へ寄ってから帰宅すると、松下の資料をもう一度すべて見直した。
食欲を感じなかったので、夕食はとらなかった。

幼稚園、小学校の同級生、中学での担任、近所の住人、高校の同級生――コメントが多いのは、中学・高校時代の知人で、入学して間もなく休学してしまったためか、大学時代のものは極端に少なかった。


「予備校へは行ってませんでしたね。親御さんが教育熱心だったので、家庭教師が何人もついていたみたいです。成績は良いほうでした」
――小学校の教師になりたいというのは、本気で?
「いや、どうでしょう……。結局は医大を受けたわけですから。進路に悩みはつきものなので、どの程度本気だったかは、分かりませんね。でも大学に通わなくなったって聞いて、ああ、ムリさせちゃったのかなとは思いましたが」
(同様の発言を、同級生からも確認。高校でも中学でもなく、小学校の教師と言っているところが気になる。小児性愛の傾向の現れか?)


松下のコメントを読んでいるうちに、疲れを感じて、モニターから目をそらした。
その時だった。
かたん、と玄関口のほうから、物音がした。
こんな遅い時間に、客が来るわけがない。
祖母のことで俺を避けている母親が、来るわけがない。

胸騒ぎがして、祖母の部屋をそっと出ると、勝手口にある扉を開けて音がしないように慎重に抜け出し、裏口から玄関へまわった。
月の出ていない夜で、外灯は薄暗い。
その人物は、うちの小さな門を開けて、出て行こうとしているところだった。

俺は疲れていたのかもしれない。
どうして、そんなふうに思ってしまったのか、分からない。
とっさにその名を叫んでいた。

「……正春!」

通りに出て、去りかけていた人影が、ぴたりと動きを止めた。
その瞬間には、もう自分の間違いに気が付いていた。
「それ、誰?」
外灯を背に立っていたのは、志村だった。

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