O V E R

Scene13


その日の祖母は、体調が悪かった。
検査で疲れているのか、病状のせいなのか、ベッドに横たわって、一言も口をきかない。
そのうちに眠ってしまったようだが、呼吸をしているかどうか心配になり、顔を近づけて、何度かそれを確かめた。
痩せたな、と思う。
これから始まる治療のために、体力をつけなくてはいけないのに。



「今の抗がん治療は、よくなってきてるって言うから、大丈夫よ」

そう言ってくれた祖母の隣のベッドにいた人は、どこへ行ったのだろう。
病室は、また人が入れ替わっていて、祖母の隣のベッドには見知らぬ中年女性がいた。
「どうも」と軽く会釈をしてみたが、ぼんやりとした様子で、何の反応もない。
ほんの二日前までそこにいた人は、どこへ行ったのだろう。


前に来たときには志村と帰った、駅へと続く坂道を歩きながら、祖母の具合が悪そうだったのは、もしかしてそのせいだったのかもしれないと、ようやく気がついた。
祖母より長く入院していたその人は、とても退院できるような状態ではなかった――だとしたら。
思わず振り返ると、古く厳しい大学付属病院の建物が、薄暗い照明に浮かび上がって見えた。
あそこから出られず、出られないまま死んでいくかもしれない祖母の気持を、俺は考えたことがあっただろうか。

何か、言ってやればよかった。
なんでもいい、祖母の気が紛れるような、何かくだらない話でも。
人の顔色を窺いながら生きているくせに、俺はいつも肝心な時に、気が付けない。

携帯電話を取り出して、新しく登録したばかりの母親の番号を呼び出してみる。
何回目かの呼び出し音が途切れた後に、留守番電話サービスのアナウンスが流れ出す。
最近おなじみのパターンだ。

……俺の番号だけ、留守電に自動転送する設定にしてるんじゃないだろうな。

冗談のつもりで思いつき、ありそうな話だと気がついて、電源を切った。



(一緒に行かないか?)


あの時の、正春の声を覚えている。
一緒に行っていたら、どうなっていただろう。
殺されたのか。それとも今ごろ、南の島でのんびりと、2人で魚でもとって暮らしていたのか。

……どっちにしても、天国みたいだな。

苦く笑って、星のない暗い空を見上げる。
風が冷たく、頬をなでた。

「いつも、どこにいても、きみの友達のつもりでいます。」

胡散臭い文章だ。いまさら、いったい何のつもりで書いてきたのか。
いまさらだ。
俺はずっと会いたかった。正春に謝りたかった。

忘れたことなんか、なかったんだ。




「これさー、ちょっとムリがない?」
すぐ後ろで篠崎真理の声がして、台本を取り落としそうになった。
放課後の教室。寺田亜紀を中心とした何人かで、学祭の打合せをしていたところだった。
寺田が、例のおっとりとした調子で、しかしいつの間にか日程をまとめてしまい、演技する以外の役目を課されていない俺は、ぼんやりと台本をめくっていたのだった。
「あーもう、先生は見ちゃダメー!」
まったく迫力のない寺田の抗議に「ゴメン、ゴメン」と笑いながら、篠崎真理の細い指が、俺の手から台本を取り上げる。
「だって、向坂が出ずっぱりで、一人二役やるんでしょ? この主人公AとB、どうやって見てるひとに違う人物だって認識させるわけ? 服装? 演出? まさか演技で?」

まるで授業のときのように、篠崎真理は、こちらへ開いた台本を指先でトントンと叩いてみせた。
「それは……」
うう、と寺田亜紀が口ごもった。
「一人二役は難しいよ。演技で差を出すより、演出を工夫したほうがいいかも」
はい、と篠崎は台本を俺に返して寄こした。

篠崎の指摘はまるでピンと来ないが、寺田の困り果てた様子をみると、どうやら言い当てている部分があるらしい。
演技に期待するな、という点においては、俺も賛成だ。

「でも、すごいねえ。もっと学芸会みたいなやつかと思ってたら、ちゃんと演劇なんだね」
篠崎の言葉に、寺田の表情がぱっと明るくなった。
「うん、そうなの。うち部員少なくて、こういうの出来なかったから……」
部員?
「寺田はね、演劇部なの」
知らなかったでしょ、と言いたげに篠崎は口元で笑った。

「……ところで、いつも番犬みたいに付いてるアレは、どうしたの?」
アレ、というのは志村のことだ。
分からないふりで「なんのことですか」と言えば、余計に絡まれそうな気がしたので
「さあ。休みみたいです」
と短く答えた。
「へえー、ウソみたい。ケンカ? あ、ケンカになるわけないか。向坂に冷たくされて出てこないとか、そんなカンジ?」
「先生は、志村にずいぶん詳しいんですね」
分かったような言い方に、引っかかるものを感じて、嫌味な言い方になってしまった。
「そう? 向坂のくせに、珍しくつっかかるじゃない。あ、ねえ寺田ー! もう終わりなら、この主役ちょっと借りちゃっていいー?」
篠崎が声を張り上げると、離れたところで小道具の係と話し込んでいた寺田亜紀が「ちょっとだけですよー!」とOKサインを出してよこした。
「顔かして」
耳元に低い声を落とされて、俺は仕方なく立ち上がった。

(彼ではなく、もうひとりに注意してください。)

もうひとりというのは、俺にとっては間違いなく篠崎なのだが、どうして正春はそんなふうに思わせぶりに書くのだろう。
あの文章は、松下と篠崎が俺の側にいることを知っていて、なおかつ俺と接触があったことを知っていることを指している。
はっきりとそう書かないのは、何かを警戒しているからだ。
警戒している――俺が、どう出るのかを?


「志村が去年も留年しかけてるの、知ってた?」
廊下を歩きながら、篠崎が話し始めたのは、意外にも志村のことだった。
「話には、聞いてます」
入学したてのころは、俺は始めたばかりのバイトで忙しく、クラスの違う志村がどうしているか、まるで知らなかった。
ある日、俺のクラスに本人があらわれて「ダブっちゃうかも」とケロッと言い、それで初めて、ろくに授業に出ていないことを知ったのだった。

「でもねえ、急に出てくるようになったんだよねえ。ちょうど今くらいの時期かな? あんまりマジメになっちゃって、補習も受けさせろって言うから、どうしたのって聞いたわけ」
「はあ」
「そうしたら、『永ちゃんにメチャメチャ怒られた』って」
篠崎は、思い出したように笑い出した。
「怒りましたけど……」
それの何がおかしいんだ。
篠崎は笑いをこらえながら、こちらを向いた
「だって、ねえ。私だってさんざん注意したし、担任だって親だって、なだめたりすかしたりしてたのに……。向坂が言ったら、あっさり聞くんだなあと思って。ずいぶん慕われてるじゃない」
「したわれて……」
なんだか、背中が痒くなるようなことを言われている気がする。
そもそもの出会いからして、そんなたいそうな関係ではないのだ。
だいたい、いつも俺が小言を言って、それを志村がハイハイと笑って聞いているだけで、別にたいした会話をするわけでも――

「あいつ、俺なんかといて楽しいのかな……」

つい、ぽつりと呟いてしまった言葉に、篠崎真理が目を見開いた。
「うわ、びっくりした。向坂でも、そういうこと言うんだ」
「……言いますよ」
ばつが悪くなってそう返したものの、普段の自分なら言わないはずだと、分かっていた。
この数学教師には、不思議なところがある。
人の心に入り込んで、本音を言わせてしまうような。


「志村が言ってたよ。自慢げに」
ふふ、と篠崎真理が笑った。
「永ちゃんは、俺にだけ怒るんだよって」
思わず、足が止まった。
脳に言葉が届くより先に、何か、殴られたような衝撃があった。
篠崎真理が、不思議と透明な、何を考えているのか分からない目で、こちらを見返した。

「お願いがあるんだけど」
ふと小声になって、篠崎が立ち止まる。

「白川正春から、連絡があったら、必ず教えてほしいの。そうすれば、あの男がどういうつもりでも、あなたを絶対に守ってあげられる。……約束してくれる?」



(いつも、どこにいても、きみの――)
正春の手紙の、あの一節を思い出した。


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