O V E R

Scene12

こんなところで生徒を殴って職を失う危険を冒すほど、馬鹿な男でもないだろう。
嫌味か、脅しか。
呼ばれて松下の前へ出て行った時には、そのどちらかだろうと思っていた。


「……すまなかった」


予想に反して、いきなり頭を下げられて、さすがに面食らった。
通り過ぎる生徒達が、頭を下げる数学教師を見て、何事かという顔をする。
「暴力を振るったりして、すまなかった」
そう言って、松下はさらに深く頭を下げ、それから真っ直ぐに顔を上げた。
淡々とした態度も、その落ち着いた目の色も、数日前の荒れた様子が嘘のようで、
「いえ……」
と口ごもってしまったのは、こちらのほうだった。

「図々しいようだけど、頼みがある」
松下の、きっちり着込んだスーツの内ポケットから、薄い、小さなケースが取り出された。
「ここに、今まで自分で調べてきた、白川正春のことが入っている。読んで、出来れば感想を聞かせてほしい」
ごく穏やかな声の調子に、何故か気圧されて、考える間もなく差し出されたケースを受け取ってしまっていた。
「感想――ですか」
うん、と松下は頷いた。
「感想でいい。白川正春を知る人たちに、取材したものだ。あの男を見つけ出す手がかりになればと思って続けてきた。どう感じたかだけ、教えてほしい」
「篠崎先生は、知っているんですか?」
そう聞いてしまったのは、松下にどういう心境の変化があったのかは知らないが、篠崎真理はこのことを承知していないのではないかと思ったからだ。
あの篠崎真理が、俺に手の内を見せるようなことをするだろうか。

「彼女は関係ない」
まるで吐き捨てるような言い方だった。
頼む、と言い残して背を向けた松下をぼんやりと見送って、「関係ない」というのは、どこかで聞いたフレーズだなと思っていた。

……ああそうだ、俺が志村に言った言葉だ。

受け取ったケースをポケットに滑りこませ、表情を消して教室へ戻ると、遠巻きに見られているような空気を背中に感じた。
気にするなと自分に言い聞かせて席につくと、まとわりついていた視線はすぐに薄らいで、消えていった。
誰も、他人のことにばかり構ってはいられないのだ。

志村はその後、いつの間にか教室から姿を消していた。
伊藤が「志村、帰っちゃったみたいだけど」と言うのを聞いて、初めてそれに気が付いたほど、俺は一日中、上の空だった。
松下から受け取ったデータを早くこの目で確認したくて、そのことばかりを考えていたからだ。
志村がいなくなったと聞いても、うわついた内心を探られずに済んだと、むしろホッとしてさえいたのだった。
そして、それきり、志村のことは思い出しもしなかった。




「被害者の遺族であることを説明し、取材を実施。テープ録音を元に書き起こしたものであるが、取材対象者に録音の許可はとっていない。」

俺に宛てて書いたのだと思われる、素っ気ない手書きのメモが挟んであった。
松下に手渡されたケースの中身はフロッピーディスクで、祖母が使っていた古いパソコンに、それを読み出せるドライブが付いていたのは幸運だった。
病院へは立ち寄らずに、急いで帰宅して、祖母の古びた文机の上で埃をかぶっていたデスクトップマシンを起動する。
ぶうんという音がして、画面が生き返った。
ファイルを呼び出してみると、それは膨大な量のインタビューだった。


――普段の白川正春はどういう子供でしたか?
「おとなしい子だったと思います。花が好きで、優しい子でした」



答えている人物は、正春が6歳の頃に白川家の家政婦をしていたという女性だ。
松下和樹は、正春を知るありとあらゆる人々に会い、正春について聞き出し、会話の内容を細大漏らさず書き綴っていた。



「よく体に痣をつくっていて、転んだと言っていたのですが、今にして思うと違ったのかもしれません」

――虐待の可能性があると?
「分かりません。週に3日通っていただけだったので……。でも、転んでつくような痣ではありませんでした」

(家庭での虐待の可能性あり。父母との関係について、再調査が必要と思われる。)



インタビューの終わりには、必ず松下自身の雑感が記されていて、俺はそれを頼りに慎重に読み進めていった。


「真面目な子でした」
「おとなしくて、あまり印象がありません」
「お兄ちゃんに懐いていたみたいで、よく一緒にいるところを見ました」

子供のころの正春については、これといって意味のなさそうな、そんなコメントばかりが並んでいる。

小学校の高学年あたりから、内容にやや変化が現れる。

「体育の授業を休んでばかりいた」
「プールに入るのを拒否した」
「体に触れられると、怒り出した」



(虐待の可能性あり)
松下の書いた言葉が、頭の奥で点滅していた。



「カッターでノートを切り刻まれた、と言い出して大騒ぎになったんです。でも、担任の先生がみんなの持ち物を調べてみたら、カッターを持っていたのは、本人だけでした」
(他の取材者からも確認。本人しかカッターを所持していなかったのは事実と思われる。)


――友達は多いほうでしたか?
「少なかったんじゃないかな。付き合いにくいやつで、ちょっと言い争うと、次の日も怒ってたりしたから」

そう語っているのは、中学時代の同級生だ。

――いじめられたりしていましたか?
「それは無かったかな。恐い噂があったんで、みんな避けていましたね」
――恐い噂というのは?
「仕返しされる、っていう噂があったんです。あいつに何かすると、仕返しされる。三日後か三ヵ月後か分からないけど、必ず仕返しされる。入院した上級生がいたとかいう……まあ、怪談みたいな、本当かどうか分からん噂ですけどね」
(他の取材者から、同様の噂を確認。大怪我をして入院した一学年上の生徒がいたらしいが、白川正春本人が関与していたかどうかは不明。本人とは連絡が取れず。)


中学2年のころ、また転機が訪れる。
正春が懐いていたという、6歳上の兄が亡くなったのだ。


「お兄さんが亡くなった時は、しばらく学校を休んでいましたね。自殺だったのかな? よく知らないんですけど、そういう噂でした」
「登校してきたら、すごく痩せていて、顔色もひどくて、驚きました」
「体育の時の着替えで見たんですが、アバラが浮くくらい、痩せちゃってましたね」
(この兄の死の直接の原因は薬物の過剰摂取ではなく、凍死であったとのこと。別項目参照。)



探してみたが、別項目も、別のファイルも存在していなかった。
ここに載せているものが、全てではないというわけだ。

一部の週刊誌に書かれていた「兄の不審死」についても、松下はかなり踏み込んで調べていたらしい。

いったい、この調査に、どれほどの時間と手間がかかっているのだろう。

松下がやろうとしていたことは、正春の人となりを浮かび上がらせるという、やってみたところで意味があるのかどうかも分からないような、気の遠くなるような作業なのだ。

正春からの手紙。
あれは、松下にとっては、欲しくてたまらない手がかりに違いない。
渡すつもりはない。ないけれど、でも――


モニターを見つめていて、ふと気がついたことがあった。
兄の死の直後の、正春の様子についての同級生のコメントだ。

「体育の時の着替えで見たんですが」

この当時の正春は、体育の授業に出ていたり、人前で着替えたりしていたのか。
だとしたら、この頃は、体に虐待の痕跡は無かったのだろうか。
それとも、もっと以前に虐待は止んでいたのか?



――あいつに何かすると、必ず仕返しをされる。



正春の家族は、両親と祖父母と兄だけだ。
兄が死んだのは、正春が中学生のとき。
両親と祖父母が殺されたのは、それから数年後の、あの火事の夜だった。


いったい、そのなかのどれが、正春にとって復讐だったのだろう。


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