O V E R
Scene11
ダイレクトメールにまぎれて、その白い封筒はあった。
郵便受けから取り出したそれらを、居間に放り投げていたせいで、封筒の存在に気がついたのは深夜だった。
差出人の書かれていないその封筒を手にした時、頭をよぎったのは、父親のことだった。
「ほんっとに調子ばっかりよくてね。あんないいかげんな男って、いないわよ」
あの母親にすら、愛想をつかされている父親とは、もう三年ほど会っていない。
母親より10歳年上の父親は、詐欺まがいの事業を起こしては、儲けたり借金を背負ったりを繰り返し、いつも誰かに訴えられたり、逃げ出したりと忙しい。
祖母は俺のこの父親を毛虫のように嫌っていて、何回か借金を申し込まれてからは、出入禁止を言い渡していた。
俺自身には、物心ついてからというもの、父親と一緒に暮らした記憶はない。
それでも父親は、俺という息子にまるで関心がないわけでもないらしく、年に一回程度は、一方的に近況を知らせてきたりしていた。
表書きに、住所に続いて「安斎様方 向坂永一様」とある。
こんなに丁寧な書き方で、整った文字だっただろうか。
不審に思いながら、破くように無造作に開封し、中の紙を引っ張り出す。
それは、白地に罫線の入った、ありきたりな横書きの便箋だった。
お元気ですか?
元気でなくても、きみはそう言わないだろうと思います。
学校は楽しいですか?
幸せですか?
会いには行けませんが、いつも、どこにいても、きみの友達のつもりでいます。
(追伸) きみの学校に、松下という数学の教師がいると思います。
彼ではなく、もう一人に注意してください。
白川正春
文末にその名前を見つけた時、心臓を撃ち抜かれたように、動けなくなった。
何度も何度も読み返し、まるで詩のように短いその文章が、何を語りたいのか、考える。
正春の字など、覚えていない。これが本当に正春の書いたものなのか、判断できない。
きみ、と呼びかけるそれは、まるで大人が子供に分かりやすいようにと配慮しながら書いたような、やさしい、簡潔な文章だった。
正春のはずがないと理性では疑いながら、そのことが、俺の胸を締め付けた。
――まさか本当に、正春なのか?
消印は「東京中央郵便局」となっていたが、どこに住んでいようが、そこへ投函しに行くことは可能なので、これは何の手がかりにもならなかった。
しかし、正春の名を騙ってこんな手紙を出す理由が、他の人間にあるだろうか。
あるとすれば、俺に対して疑いを持っている篠崎真理と松下くらいしか思いつかないが、そうだとすると追伸の部分の説明がつかない。
本当に、正春なのか。
答えの出ないまま、手紙の字を目で追い続け、正春の筆跡を思い出そうとしてみたが、子供のころの記憶はすでに遠く、なにひとつ形にならなかった。
その夜、久しぶりに正春の夢を見た。
(一緒に行こう)
そう言って、手をさしのべる正春の顔は、いつものようにぼやけて見えなかったが、何故かはっきりと、正春だと思った。
正春は、俺を恨んでなんかいなかったんだ。
一緒に、南の島へ行けるんだ。
そのことが、ひどく嬉しくて、手をつかもうと、あわてて自分の手を伸ばした。
指先がふれたと思った瞬間、いきなり体が落下していく感覚に襲われた。
落ちる――落ちてしまう。
正春。
「顔色」
「え?」
「顔色、よくねえんだけど。ちゃんと寝た?」
教室で顔を合わせるなり、志村がそう言った。
「……寝たよ」
つい吐き捨てるように言ってしまったのは、鼻先をかすめた匂いのせいかもしれなかった。
「また、そうやって、永ちゃんはさあ……」
おおげさに溜息をつく志村が、今朝はとても疎ましく感じられて、目をそらした。
実際には、浅い眠りを繰り返し、夢を見ては起きてしまい、昨夜はまるで眠れなかった。
だけどそんなものは、他の誰も気付かない、わずかな変化のはずなのだ。
どうしてこいつに、見抜かれるのか。
「向坂あ、センセーが呼んでるー」
気まずいその場を救ったのは、同じクラスの伊藤だった。
「先生?」
「うん、松下。なんか用事だって、廊下にいる」
気さくな伊藤が、教室の外を指して言った。
「待てよ」
行こうとしたところを、志村に手首を掴まれた。
「行くことない。俺が代わりに聞いてくるから」
怒ったような表情で志村が言い、その様子に伊藤が驚いて、俺の顔を見た。
空気が動いたせいなのか、また、あの香りがした。
志村から、ほんのわずかに漂ってくるこれは、この前とはまた違う香水の匂いだ。
いつも心配そうな顔をして、何でも分かったような顔をして、こいつだって。
こいつだって、俺に何もかも話しているわけじゃない。
「おまえには関係ない」
勝手に口が動いて、志村の手を振り払っていた。
その瞬間、周りがしんと静まり返って、自分がどんな声を出したのか気がついたが、もう遅かった。
すぐに背を向けてしまったせいで、その時、志村がどんな顔をしたのかは分からない。
視界の隅には、寺田亜紀の心配そうな表情があった。
――彼ではなく、もう一人に注意してください。
正春がそう言うのなら、松下には危険はないはずだ。
行って話をするくらい、何でもない。
いつのまにか、俺はあの手紙をすっかり受け入れ、信じる気になっていた。
たった何行かの、本物かどうかも分からない、あの手紙。
あれだけの手紙のせいで、俺の中の何かが、壊れ始めていったのだ。
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