OVER

Scene10

正春に文字を教えてもらい、自分の名前が書けるようになった。
そのうち、絵本が読めるようになった。
それまで記号の集合にしか見えなかったものが、つながって、言葉になる。



「永一は、飲み込みが早いなあ。俺のガキのころより、ずっと賢いよ」

何がそれほど面白かったのか、正春は簡単な算数の手ほどきもしてくれて、まるで熱心な教師のように、図鑑を持ち出しては、人体の構造を説明したりした。
そのくせ、温室にたくさんある花の名前は、ひとつも教えてくれなかった。

「名前なんか、知らなくていいんだよ。もともと花に名前なんて、ないんだから」

教えたがりのはずの正春が、いつもかたくなに、そう言うので。
俺は今も、その花の名前を知らないままでいる。



「……これは?」

寺田亜紀から手渡された紙の束は、予想していたより、かなり厚かった。
「ジャーン! 台本、完成品です! 手直ししてもらってたら、時間がかかっちゃって。あ、永一くんのセリフはね、ぜんぶ色ぬっておいたからー」
その言葉に、手早くページをめくってみたが、どういうわけか、どのページを開いてみても、黄色のマーカーで印がついている。

「これは、どういう……」
「うわ、なんだこれ、セリフ長くねえ?」
背後から覗き込んできた志村に言われるまでもなく、セリフが長く、登場回数が多すぎる。
寺田亜紀は、きょとんとして
「えー? だって、『王子と乞食』って知らない? これ現代劇アレンジだけど、基本はおんなじなの。そっくりさんなふたりが入れ替わる設定だから、永一くんは主人公AとB、ひとり二役ね」
こともなげに言った。




「……さっきから、眉間にシワ、よってるけど」
ストローのついた紙パックのジュースを飲みながら、志村が自分の眉間を指して、言った。
昼休み、買ってきたパンを齧りながら、中庭で台本を読んでいたところだった。

セリフが長く、多い。暗記すれば済むことなので、それはいい。
しかし、読めば読むほど、
「人前で俺が、これを言うのか……?」
という現実がのしかかり、自然と顔つきが険しくなってしまう。
演技するというのが、実際にはどういうことなのかという認識が、俺には欠けていたように思う。

「セリフ言うだけじゃなくて、身振りとかもあるだろ、演劇なんだし。だいたいさー、永ちゃんなんて、ただでさえ喜怒哀楽が薄いのに、怒ったり笑ったり、ホントにやれんの?」
遠慮なく追い討ちをかけてくる志村に対して、返す言葉もない。

童話をモチーフにした現代劇というので、もっと単純な可愛らしいコメディを想像していたのだが、実際に渡された台本を読んでみると、街金の世界を描いた、ものすごく入り組んだ人間ドラマだった。
消費者金融で財を成した男の息子である二代目お坊ちゃま社長が、借金にあえぐ無職の男と入れ替わるという、笑いあり涙ありのドタバタ劇で、読んでいるうちに、本当に頭痛がしてきた。

……今からでも、断れないだろうか、この話。

「まあ、だけど、よかったよ」
ふう、と息をついて志村が呟いた。
「何が?」
場違いな発言に、いっそう眉間の皺を深めて振り返ると、志村は「ああ」と困ったように笑った。
聞かせるつもりのない言葉を、聞かれてしまった時のような顔だった。


「……やっぱり嫌がってるみたいだから、ちょっとホッとした。あんまり乗り気だからさあ、どうしちゃったのかと思って」
「どうって、何が」
「だからさあ……永ちゃん、どっか行っちまうのかなあ、とか、いろいろ」
言いにくそうに、首の後ろを掻きながら、志村が言葉を濁す。

「どっかって、どこだよ。勝手に行かすな」
俺はそう言って、志村を小突き、会話を冗談にして終わらせてしまった。

この時、どうしてそんなことを思ったのか、聞いてみればよかったのかもしれない。
俺のどこが、そんなふうに見えるのか、正面から尋ねていれば、もっと違う話ができていたはずだった。

祖母が亡くなったら、あの家にいられなくなるかもしれない。この高校にいられるかどうかも分からない。
そんな漠然とした不安から、何かひとつくらい思い出が欲しいと思ったのだと、志村に正直に打ち明けることができていたら。
そんなことを気にかけてくれていた、ただ一人の人間である志村に、もしも応えることができていたら、全ては違っていたのかもしれなかった。

現実には、俺は誰にも内心を知られたくない臆病者で、あっさりとその機会を失ってしまい――

その日、正春からの一通目の手紙を受け取ることになる。



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