O V E R

Scene9

この大学病院には、入院患者が散歩できるような、庭というものが存在しない。

外の空気を吸いたければ、外来の出入りが激しい車寄せのあるエントランスへ出るか、錆びたベンチが置いてあるだけの殺風景な屋上へ出るか、どちらかを選ぶことになる。

先週まで祖母と同じ病室にいた話し好きな奥さんは、溜息をつきながら「気が滅入るのよ」と見舞いに来た夫に訴えていた。
偶然それを耳にするまで、そんな事実にはまったく気がつかなかった。
ここでの入院生活について、祖母は一言も不満を漏らさなかったからだ。


「ばあちゃん、ごーぶーさーたー!」

後ろからシャツを引っ張って止めようとしたのだが、すでに志村は片手を上げて、高らかに叫んだあとだった。
病室にいた他の見舞い客や患者の非難めいた視線を一身に浴びて、一瞬「おや?」という顔をしたものの、すぐに「こんちはー」と愛想をふりまいて、迷いのない足取りで、ずかずかと病室の奥へと入ってしまう。
祖母のベッドは窓際にあり、カーテンが半分だけ開いていた。

「……誰かと、思ったら」
起き上がって本を読んでいたらしい祖母が、眼鏡を外して、呆れたように言った。
その髪は短く整えられ、背筋はピシリと伸びていて、手術後の一時期よりは、かなり回復したように見える。
少なくとも、詳しい病状を知らない志村の目には、余命六ヶ月を宣告された人間には見えないはずだ。

「あっと、ごめん。おみやげとか、ないんだけど」
気がついて慌てる志村に、
「みやげじゃなくて、見舞いでしょう、それは」
落ち着き払った祖母は、にこりともせずに、そう指摘した。



「でさー、瀬戸先生はダイエットしてるって言うんだよ。そのクッキーはダイエット用のだからいいんだって。ばあちゃんさあ、どう思う?」
「してると言うのなら、本人はしてるつもりなんでしょ。言っておきますけど、だいたい私はね、あなたのおばあさんじゃありませんからね」
「だよなあ! ばあちゃんが今でもウチの先生だったら、俺ぜったい留年してるよ。な、永ちゃん?」

こんな噛み合わない会話の流れで、俺にどんな相槌をうてというのか。

志村は、どこで聞いて来たのか分からないような校内の噂話をいくつも祖母に話して聞かせ、聞かせるだけではなく、いちいち祖母に対して意見を求めた。
祖母は無表情にそんな志村の相手をしていたが、俺の顔を見れば「勉強はしているのか」「閉じまりはしているか」の二つしか言わない人なので、そもそも、これほど長いセンテンスを話すこと自体が驚きだった。
受答えは素っ気ないものだったが、いつものように俺に体調を気遣われたり、顔色を窺われたりしているよりは、ずっと気楽そうで、会話を楽しんでいるように見えた。

そんな二人を横目に、そっと周りを見回してみたが、母親が来たような形跡は、どこにもなかった。




「前から思ってたけどさあ、ばあちゃんて、永ちゃんに似てるよな」

出て来たばかりの病院を振り返りながら、志村がそう言った。
駅へと向かう坂道は、すっかり陽が落ちて、秋の風が吹いている。

「おまえ、それは逆だ」
「あっはっは! ほらほら、そういうとこ」
大笑いした志村に背中をバンバンと叩かれ、俺は思わず顔をしかめる。
「あ、わるい。忘れてた」
志村は慌てて手を引いた。

昼間、松下に壁に叩きつけられた背中が痛むのだ。
去っていく松下の後姿を思い出して黙り込んでいると、「そうだ、今日、永ちゃんち行っていい?」と志村が言い出した。

「今日は――駄目だ。母親が来てるから」
咄嗟にそう断ってしまってから、しまったと思った。
「えー、永ちゃんの、お母さんか! 見たい、見せろよ。なあ、どんなカンジ? 似てる?」
意外な食いつきを見せる志村に、うっかり口にしてしまったことを後悔した。
どんなカンジかと言えば、ものすごく説明しやすいタイプの人間だと思うが、あえて同級生に紹介したいような母親ではない。
会わせろと言う志村を断ると、それでも途中までついて来ると言う。
そこでようやく気がついた。
病院までついて来たり、家に来たがったり――志村は、おそらく昼間の出来事のせいで、俺の身を心配しているのだ。

「志村」
「なに?」
「……やっぱりいい」
「なんだよ、言えよ」
屈託なく笑う志村に、言うべき言葉を探して、迷った。

「何か俺に……聞きたいこと、ないか?」
口にしてすぐに、違う、と思った。
それは違う。志村にそんなことを聞くのではなく、俺のほうから説明しなくてはいけないのだ。

だけど、何を言う?
正春のことを説明するのは、自分の子供時代を説明するようなものだ。
言いたくない。そんな話は、誰にも聞かせたくない。

「聞きたいこと……ああ、あのさあ」
志村は暗い空を眺めながら、間延びした声を出した。
「寺田はさあ、どうして永ちゃんを、名前で呼ぶわけよ?」
「寺田?」
予想もしないことを聞かれ、ポカンとしてしまった。
「名前って……ああ、去年同じクラスに、向坂っていうのがもう一人いたからだろ」
「えー、なんかそれ、違わねえ? じゃあ、そっちの向坂は、何て呼ばれてたのさ」
「だから、向坂だろ」
志村が、心から呆れたような顔で、こちらを見た。
「なんだよ」
「……永ちゃんて、すげえなあ。いや、びっくりした。なるほど」
「なに納得してんだよ」
「いやー、いいんだ。よく分かった。永ちゃんは……いつまでもそのままでいてくれ」
「なに笑ってんだよ?」
後ろから思いきり蹴ってみたが、志村は肩を震わせて笑うばかりで、まったく人の話を聞こうとしなかった。




買い物を済ませてから、家に帰りつくと、明かりもなく真っ暗だった。
居間に、母親の書き置きが残されていた。

新しい住所と、携帯の電話番号。「用事が出来たので、帰ります」という走り書き。
書かれていた住所は、意外にも駅ふたつほど先の、近いものだった。
そんなに近くにいるのなら、ここに住めばいいだろうに。

買ってきた食材が、無駄になってしまった。
こんなことなら、志村を断らずに連れて帰ってくればよかったなと、ぼんやり思った。

すぐに動く気になれず、手にした紙切れを眺めたまま、立ち尽くす。

この母親と付き合うコツは、二つある。
期待しないこと。恨まないこと。
本人にはまったく悪気はないのだから、こんな気まぐれに腹を立てるだけ、無駄なのだ。

期待しない、恨まない。

ずっと昔からやってきたそのことが、今夜とても難しく思えるのは、何故だろう。

その気になれば簡単に命を奪えるはずの俺などに、正春がいつまでも興味を持ち続けるのは、何故なんだ。

俺には何の力もない。
あの母親を、祖母のいる病院へ行かせることさえ、出来ないのに。

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