OVER

Scene7

「……楽しそうですね」

いきなり現れた松下が、戸口に立ったまま、そう言った。

いつもきちんとしたスーツを着て、髪もきっちり分けている真面目教師という印象しか残っていなかった松下和樹は、こうして間近で見ると、意外と筋肉質な、背の高い男だった。
先ほどまで笑っていた篠崎真理が、わずかに顔を強張らせたのが分かった。
松下の平板な口調に、どことなく嫌味な調子を感じ取ったのは、志村も同じだったらしい。

「あーっと。そろそろ失礼しよっか。な、永ちゃん」
そわそわしながら立ち上がると、俺の背を押すようにして松下の横をすり抜け、「お邪魔しやしたー」と部屋を出る。
篠崎真理は、一言も口をきかなかった。



「わー、こええ。なにあの空気。俺、もしかして、ジェラれた?」
「何語だよ……」
「妬いてた、あれは妬いてたぞ。それにしても、まーた弁当難民になっちゃったなあ」
教室へ戻るか、と志村は重箱をぶらさげて、屈託なく笑った。
志村は、篠崎と松下の間にある気まずい空気を、恋人同士の痴話喧嘩だと思っている。



「……ちょっと先行っててくれ」
「は? なに?」
「忘れ物した」
「おい、永」
永ちゃん、と呼ぶ声を振り払うように、足早に廊下を戻る。


実際に松下と顔を合わせて、分かったことがある。
松下のメガネが冷たい印象を与えるのだと、俺はずっとそう思っていた。
それは違う。
俺が――俺自身が、松下に冷たい目で見られているのだ。


迷いながら準備室の扉に手をかけた時、「勝手にしろ!」という怒鳴り声とともに、勢いよく扉が開いた。
ぶつかりそうになった人間が俺であることに絶句して、松下は動きを止める。
血走った松下の目と目があった次の瞬間、背中にドンと衝撃を受けた。
物凄い力で首を押され、壁に押さえ付けられたのだ。



「白川正春が何をしたか……知っているのか」



しぼり出すような低い、押し殺した声だった。
室内でずっと言い争っていたのか、肩で荒い息をするように、松下はそう言った。
それでいて憎悪に満ちた視線は、俺を見ているような、見ていないような、不思議と焦点の定まらないものだった。
呼吸が出来ずに頭の奥が真っ白になり、たったひとつの名前だけが、脳裏に閃いた。

白川正春――正春。



「なにやってんだよ!」
ふいに志村の声がして、体が自由になり、俺は体を折って咳き込んだ。
「永……永ちゃん、大丈夫か。ほら、息してみな」
「だ」
大丈夫だと言おうとして、潰された喉が痛んで、また咳き込んでしまう。
松下は両手を下げて、奇妙にボンヤリした様子でこちらを眺め、いきなりフラリと背を向けて歩き出した。
「おい、待てよ!」
「……いいから」
追いかけようとする志村の腕を掴んで、俺はようやくそう言った。
「何がいいんだよ!」
大声で怒鳴りつけられて、志村が本気で怒っていることに気がついた。

俺は知っている。
いつも本音を隠し、他人の前で行儀よく振る舞い、上手に立ち回ることしか知らない俺などより、志村はずっとずっと情のある、優しい人間だ。
今は手にしていない、どこかに放り投げて来たらしい弁当だって、俺のために母親につくってもらったのだと、分かっている。

そんな思いやりは、俺なんかではなく、もっとふさわしい他の誰かに使えばいいのに。

「ごめんな」
「なんで永ちゃんが謝るんだよ……」
毒気を抜かれたように、志村は呟いた。
松下は、すでに廊下の向こうへ消えてしまっている。
「どういうことだよ、先生」
志村がきつい視線を向けた先には、開け放たれた扉の向こう、凍りついたように立ち尽くす、篠崎真理の姿があった。


事件を改めて調べ直してみると、被害者に関する情報は、下手をすると容疑者である正春よりも多く報道されていて、簡単に手に入れることが出来た。

今まで、それらの情報を読み飛ばしてしまっていたのは、正春に対する、この複雑な感情移入のせいではないかと思う。
俺にとって大切なのは正春との思い出だけで、見知らぬ被害者がどういう人間で、どのような目に遭わされ、残された家族がどのように不幸になっていったのかなど、正直なところ、知りたくもなかったのだ。



松下の名は、簡単に見つかった。
二人目――この順番は、失踪した時期によって付けられたものだ――二人目の被害者は、まだ五歳の女の子で、小学校の教師である父親と、母親がいた。正春の家の焼け跡から遺体が発見された頃には、この一人娘の行方不明が原因で互いを責め合い、この夫婦はすでに離婚していて、母親は旧姓に戻っていた。
この母親の旧姓が、「松下」だった。

体を壊して人前に出られない、この姉のかわりに、当時まだ学生だった松下が、何度もインタビューに応じている。
犯人逮捕を強く訴える、憤りに満ちたコメントに添えられる名前は、弟Aさんという仮名だったり、本名だったりした。


そうやって調べていくうちに、どうしても気になることがあった。

ありふれた姓であるし、なによりその態度はいつも自然で、俺に対して含むところは感じられなかったので、単なる偶然だろうと思っていた。

しかし今こうして目の前の篠崎真理の青い顔を見てみると、やはり聞かなくてはいけないのかと覚悟した。

「先生の……ご実家は、印刷屋さん、ですか?」
篠崎真理は、弾かれたように顔を上げて、怯えたように俺の目を見た。



三人目の被害者は小学校へ入学したばかりの男の子で、家は地元で小さな印刷会社をやっていた。
その一家が、「篠崎」というのだ。

Copyright 2006 mana All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-