OVER

Scene8


沈黙のあとで、青ざめた篠崎真理は、細く息を吐いた。

「……実家に住んでいるのは、父だけ。もう仕事は受けてないんじゃないかな。甥っ子がいなくなってから、うちの家族はね、バラバラになっちゃったの。この話、詳しく聞きたい?」

俺が黙ってその目を見返していると、皮肉な笑みは、すぐに溶けるように消えた。
「どこから話したらいいのか……その前に、ひとつ教えて。あの男が、連絡してきたことはある?」
真剣な眼差しに、俺は緊張した。
篠崎が聞きたいのは、俺と正春が、現在もつながりがあるのかどうかだ。
「……ありません」
その答えに満足したように、篠崎は小さく頷いた。
「そう……そうよね。そうでなかったら、説明がつかないもの。でも、彼のほうは疑っていて、あなたが何か、あの男の居場所を知っているんじゃないかと思っていたみたい。私の意見は逆だった。でも、どちらにしても、あなたの側にいるしかなかったから――」

篠崎真理は、疲れたように笑い、髪をかきあげた。

胸がざわつく。いやな予感がする。

「……それ、何の話ですか?」

篠崎真理は、ふふ、と笑った。
「ねえ、どうして私と彼が、あなたを知っているんだと思う? 向坂永一。あなた、警察から事情聴取されたことだってないでしょ? あなたは母親に連れられて、すぐにあの町を出た。誰も白川家に出入りしていた子供がいたことは知らなかった。ねえ、違う?」


違わない。
あの火事の直後、いつものように問題を起こした母親に連れられて町を出て、それきりだった。
警察に何かを聞かれることもなく、俺の存在には、誰も見向きもしなかった。
俺が自発的に正春との関わりを話さないかぎり、誰も知らないはずなのだ。


「数年前に、私と彼はね、一度だけ、あの男を捕まえられそうになったことがあるの。本当に、あと少しで、捕まえられたはずだったのに――」
篠崎真理は、口惜しそうに、整った顔を歪ませた。
その告白は驚きだった。
警察さえ見つけられずにいた正春を、篠崎と松下は、追い詰めたというのか。
「でも、一足遅かった。気付かれたの。家はからっぽで、ほんの少しの着替えと、日用品と、写真と、報告書があるだけだった」
「写真と報告書……?」
「そうよ」
篠崎真理は、挑むように正面から俺の目を見た。
「あなたの、写真と報告書。何年分あったと思う? あの男はね、毎年毎年、定期的にあなたの身辺を調べさせていた。事件の直後から、ずっと、何年も。ねえ、これ、どういう意味だと思う?」





「永ちゃん」
いきなり背後で声がして、体がすくんだ。
気がつくと、すでに放課後になっていた。
いつ授業が始まって、終わったのか、分からない。
賑やかに笑いながら教室を出て行く同級生たちが、ひどく遠い存在に思えた。

「永ちゃん? おい、見えてる?」
志村が真剣な顔で、俺の目の前で手を振っている。
「……見えてるよ」
その仕草に呆れてそう言うと、志村は安心したように笑った。
「そか。なあなあ、今日も病院行くんだろ? 俺も行っていい?」
「いいけど……楽しいとこじゃないぞ。病室、末期の癌患者しかいないし」
志村の申し出に戸惑って、俺はそう言った。
本当のことだが、そう言えば、志村はついて来ないだろうと思ったのだ。
「んじゃ、俺のように明るい男が行かねえと。ナースのお姉さま達もやる気が出ないってもんだよ。さあ、行こうぜー」
俺の肩を軽く叩いて、志村は歩き出した。

いつものように、ボタンの外れた、だらしない格好で。
いつものように、ヘラヘラと笑いながら。
篠崎のことも、正春のことも、何ひとつ、聞き出そうともせずに。


――どういう意味だと思う?


冷たい指先のように、その言葉が首筋を撫でて行った。


篠崎真理が言いたいことは分かっていた。
松下は俺が正春のことを隠していると疑い、篠崎は「私の意見は逆だ」と言う。
俺を直接問い詰めようとする松下と、それに反対する篠崎は、口論になっていたわけだ。
正春がこだわるほどの価値が、俺にあるとは思えない。
あるとしたら、ただひとり……殺しそこねた子供であることくらいだ。



正春の意図よりも、松下の怒りよりも、篠崎真理の執念が、俺の気を重くしていた。
篠崎は、この一年半もの間、俺という獲物の側で、正春が忍び寄るのを待っていたのだ。

慎重に。息をひそめて。


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