OVER

Scene2

「名前、なんて言うの?」

優しく声をかけられて、逃げ出しかけていた子供の俺は、驚いた。
他人の家の庭に迷い込んで、出口を探してウロウロしていたところだったのだ。
赤い花が咲き乱れ、とてもよい香りのする、まるで天国のような庭だった。

「花、好きなの? だったらあっちの温室に、もっと珍しいのがあるよ」
おいで、と手をひかれ、びっくりしてその手を振り払った。
その若い男は、気分を害したふうでもなく、「大丈夫だよ」と笑った。
「なんにもしないよ、おいで――名前、なんて言うの?」
手を差し出して、優しく問いかける。
おずおずと手を伸ばし、その指にふれた。
男にしては、ほっそりとした、優しい手。

それが、正春との出会いだった。
自分がどういう人物と一緒にいるのか、長い長い間、俺はずっと知らずにいた。
そんなふうに誰かに名前を聞かれたのも、手をつないでもらったのも、あれが初めてだったのだ。



「志村」
「……んだよ。寝てんだよ」
「授業終わったぞ」
足元に、志村の頭があった。
人の来ない特別教室棟の階段を上がって行くと、立入禁止で屋上には出られないものの、その手前に踊り場のようなところがある。
陽も差さない埃だらけのその場所で、志村はいつものように昼寝をしていた。

「服、よごれるぞ」
「ん……なんだ。永ちゃんか」
ようやく目をさました志村が、目をこすりながら起き上がった。
その髪にも背中にも、埃なのかゴミなのか分からないものが、たくさん付いてしまっている。
見ていられなくて、つい払ってやっていると、志村は背中を丸めて、飼い犬のように大人しくじっとしていた。
「……なあ、永ちゃん」
ポツリと、志村が呟いた。
「なんだ?」
「ホントに劇とか、出る気?」
「出ちゃ悪いか」
「悪かないけどさあ……クラスのことなんか、今まで参加したことなかったじゃん」
「そりゃ、誘われたことがなかったからだろ」
不満そうな口ぶりの志村に、俺は事実で答えた。
「でもさあ」
「いいから、帰るぞ」
尚も言い続けようとする志村の頭を軽くはたいて、立ち上がる。

松下を調べなければ、と思った。
あの数学教師が、どうしてあんな古い火事の新聞記事を保管していたりするのか。
そして、一緒にファイルされていた記事のいくつかには、見覚えがあった。
あの当時、あの地方で起きた、幼児失踪事件。


「そういえば、何があったって?」
ふと思い出して、少し遅れてついてくる志村を振り返った。
「何がってナニ?」
志村が頼りなさそうな顔で聞き返す。
「朝、言ってたろ。何か驚くようなことでもあったのか?」
「ああ、あれ、別にたいしたことじゃないんだけどさ、見ちゃったわけよ」
どこか上の空な様子で、なんでもなさそうに志村は言った。
「松下と、篠崎センセーが駅で痴話ゲンカしてるとこ。永ちゃん、数学の松下って知らない?」
「……知ってるよ」

あの篠崎真理と松下に、個人的な付き合いがあったのか。
ざわつく胸に、いやな予感が広がっていく。

あの庭が焼け落ちていく、火事の夜のことを覚えている。
あれから何度も考えた。
何故なのだろう。
俺だけが、正春に殺されなかった子供だったのだ。

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