OVER

Scene1

一緒に来ないか?

そう言って、手をさしのべる人がいる。

誘われるままに手を伸ばし、その指先にふれた気がした。

夢はそこまで。繰り返し訪れる夢の、その先は見たことがない。



「あー、びっくりびっくり」

とぼけたことを言いながら、ひょろりと背の高い志村が、朝の騒がしい教室へ入って来た。
見れば、制服のシャツも半ば開き、申し訳程度にネクタイがひっかかっているだけの、呆れた格好だった。
ひらたく言って、半裸だ。

すぐに窓際にいる俺の姿を見つけ、犬のように寄って来る。
「おお、聞いてくれよ永ちゃん、朝さあ」
「ボタン」
「あん?」
「ボタンとめろ。話はそれからだ」
「うわ、かったーい……。ちょっと奥さん、今の聞いた?」
おおげさに顔をしかめ、奥さんであるわけもない周囲の女子にそう声をかける。
黙って睨んでいると、しぶしぶといった様子で、服装を直し始めた。
「永ちゃんさあ、付き合い長いんだし、もうちょい柔軟に俺を受け入れたほうがいいと思うんだけど……」
「シャツもちゃんとしまえ」
「聞いてねえよ、この人は……」
はあ、と溜息をついて、志村はそれでも制服のズボンにシャツを入れ始める。

こいつとは中学からの付き合いだが、朝きちんと登校してくる姿を見たことがない。本人は寝坊だと言い張るが、どうも家に帰っていないようなフシがある。
制服から奇妙にイイ匂いがするのだ。女物の、香水のような。

「なに?」
疑惑に満ちた視線に気がついたのか、背の高い志村が首を曲げてこちらを覗きこんだ。
「いや……」
「あ、そうそう! それで、朝見ちゃったんだよ、おれ」
いきなり先ほどの話を思い出したらしく、志村はパンと両手を叩いた。
「聞きたい? ねえ聞きたいだろ?」
そんなふうに満面の笑みで押し付けられると、聞きたかろうが聞きたくなかろうが、反射的に「べつに」と答えたくなってしまう。
「またまたー、ムリしちゃって、このー」
志村が、いきなり俺の鼻をつまんで、ひねった。
「って。はなせ、あほう」
軽く手を払いのけると、横からヒョイと寺田亜紀が顔を出した。

「まーた、志村が永一くんにセクハラしてる。やめてよねえ、ウチのクラスの王子様なんだから」
「王子?」
俺と志村が、ポカンとして同時に聞き返す。
「そう、ジャーン! 王子決定です。見て見て、この配役」
漫画のように擬音をつけながら、寺田がノートを開いた。
のびのびと大きく綺麗な字で、「学園祭クラス劇企画」と書かれている。
キャストの一番最初に、「向坂永一」という名前があった。
……俺の名だ。

「信じらんねえ。劇? いまどきクラスの出し物が劇? 聞いてねえよ。普通そういうのってホームルームで決めるだろうが」
集団行動の大嫌いな志村が、不機嫌そうにノートを指で叩く。
寺田亜紀は、そんな志村の様子に動じることもなく、えへへと笑った。
「それは根回し済みなんだー。イキナリ話し合ったって、ウチのクラスなんか、どうせ女装キャバクラやるのがせいぜいだもん。キャストもスタッフも個別に了解とってあるから、あとは形ばかりの多数決で決定なの」
「なの、じゃねえ。俺は聞いてねえぞ。永も」
地を這うような低い声で、志村が凄んだ。

のらりくらりとした普段の物腰からは想像できないが、志村がこんなふうに怒ると、意外なほどの迫力がある。

「えーとね、だから今言ってるわけなの」
小首をかしげて、にこっと笑う。
「絶対、い・や・だ! 却下だ、却下……おい、なに笑ってんだよ。こいつに何とか言ってやれよ!」
志村の迫力がまったく通用しないのがおかしくて、寺田のノートで顔を隠して笑っているのを見つかってしまった。

「いや……。寺田さん、これ寺田さんが書いたの?」
ページをめくりながら、気になっていることを尋ねてみた。
「あ、うん」
「へえ、すごいな」
寺田亜紀のノートには、大道具や小道具の制作日程、使用する講堂での配置、練習日や衣装合わせなどが、細かく書き出してある。
これをこの、小柄でおっとりして見える寺田亜紀が考え出し、仕切るつもりでいるらしいのが驚きだった。
「えー、みんなにやってもらうこと決めただけだから、すごくなんかないんだけどね」
寺田は照れたように赤くなり、えへへと笑って頭をかいた。
「おい、永……永ちゃん」
察しのいい志村が、眉をひそめて俺の腕を引っ張った。
「やめとけよ。おまえ、そんな時間ねえだろ」
「志村」
「ことわれって」
「見ろよ、おまえ広報だって。宣伝部長かな。頑張ろうな」
寺田亜紀の企画書の下の方に志村の名を見つけ、指差した。
「おい本気かよ?」
志村が悲鳴のような声を上げる。

ノートに書かれていた劇のタイトルは、「王子と乞食」だった。


「ははあ。それでねえ」
篠崎真理が、くっくっと喉の奥で笑った。
昼休みに売店へ行こうとしたら、この数学教師につかまってしまったのだ。
午後の授業で使う印刷物を持たされ、教科準備室へ向かう途中で「学園祭の劇に出るんだって?」と聞かれた。

すらりと背の高い、腰までありそうな長い髪の篠崎真理は、気取らないサバサバした物言いがカッコイイとかで、男女問わず生徒に人気があるらしい。
年齢までは聞いたことがないが、二十代後半くらいだろうか。

「さっき志村とすれちがったんだよね。ぶすっとした顔で、あっちへ歩いて行くからさ。アイツ学校にいる時は向坂にべったりなのに、変だなあと思っていたわけよ」
ひらひらと手をふって、篠崎真理は笑った。

胸の奥に、なんとなくはっきりしない、モヤモヤしたものが広がった。
何が「それでねえ」なのか知らないが、勝手に納得している様子なのが、引っかかる。
篠崎は、志村と親しいんだろうか。

「向坂? どうしたの? 入りなよ。あ、それ、そのへんに置いといて」
「あ、はい」
準備室の入り口でボンヤリしている俺を、篠崎は招き入れた。
「きったないでしょー。なんで整理できないのかね教師って。あ、コーヒーいれるね」
イスをどけながら、篠崎が奥へ進むと、その振動でなのか、机の上に積まれていた本が、雪崩をうって落ちて来た。
冗談でなく、本当にスゴイ部屋だ。
放っておくわけにもいかず、床に散らかった本を拾い集めていると、新聞記事のはみ出した薄いファイルがあった。
「一家焼死」の見出しに手がとまる。
この字体、これは……。

「あー、そのへん放っておいていいわよ。松下先生って、すーぐ山つくっちゃうんだから、崩れるてるとこ見せたほうが本人のためなのよ。サンドイッチ作りすぎちゃったんだけど、ねえ、食べるよね?」
「はい」
背を向けたままの篠崎をちらりと見て、素早くファイルを開いた。

まったく同じだ。
同じ記事のコピーを、俺自身も持っている。
見出しの文字をなぞる指先が、震えた。

(一緒に来ないか?)

そう言って手を差し出したあの人は、一家焼死と書かれながら、とうとう最後まで見つからなかった。
どこかで生きているはずなのだ。絶対に。

松下……一年の時に、数?の担当だった教師だ。三十歳くらいで、独身。
その程度しか知らない。
眼鏡をかけた奥の目が、いつも笑っていないことを、思い出した。
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