OVER

Scene3

松下和樹という、この教師は、去年の春に常勤講師として採用されている。

簡単に手に入ると思っていた、松下の現住所や出身大学といった単純なプロフィールに、意外にも苦労させられた。

「今はそういうの、どこにも載せなくなってるしねえ」
下敷きでパタパタと自分を扇ぎながら、瀬戸先生が苦笑する。

学校法人も個人情報保護法の施行に神経を尖らせているらしく、ここ数年で情報管理が厳しくなっていた。それほど経営状態もよくなさそうな、人気も進学率も中堅どころの私立高であるこの学校も、大金をかけて全面的にシステムを更改したらしい。
管理されているデータにアクセスする方法が無いわけではないが、その程度の情報を得るために、合法的ではない手段を使う気にはなれなかった。
とはいえ、周囲に松下について聞きまわるわけにもいかず、結局のところ頼ったのは、昔からの知り合いである、この英語教師の世間話的な情報だった。

「窓、開けますか?」
放課後の英語科の準備室は、教師が出たり入ったりしていたが、机について仕事をしているのは、瀬戸先生ひとりだった。
話の途中だったが、やや肥満気味な、退職を控えた年齢の教師の額に浮かぶ汗が気になって、俺は窓を開けようと立ち上がる。
「ああ、気にしないで。最近こうなのよ。更年期って知ってる?」
「少しだけ」
答えながら、窓を開ける。
風にのって、グラウンドの声が遠い波のように流れてくる。あれは、野球部か。
「永一君は、変わらないわねえ」
何がおかしいのか、瀬戸先生はふふふと笑った。
「こーんな小さいころから知ってるけど、小さいころからお行儀がよくて、あんまりしゃべらなくて、全然なついてくれなくて」
瀬戸先生は「こーんな」というところで、膝のあたりで手を振った。
「……そんなには小さくなかったですよ」
「そうだった? そう、ぜんぜん気を許してくれないんだけど、でもなんだか優しいのよねえ。変な子ねえ」
笑うと、目元に優しげな皺が出来る。
返答に困って、俺はその顔を見返した。
気を許さないどころか、この瀬戸先生には、感謝してもしきれないくらいの恩がある。

「先生には、感謝しています」
自分が表情に乏しいという自覚はあるので、出来る限り声に誠意をこめたつもりが、瀬戸先生は飲みかけていたお茶にむせて、咳き込んだ。
「……そういうところがねえ、調子狂うのよねえ。永一君の王子様役って、案外合ってるかも。配役を決めた子は、見る目あるわ」
肩をふるわせて笑いながら、瀬戸先生が言う。
担当クラスでもないのに、そんなことまで、知っているのか。
情報の早さに驚いていると、「学校なんて狭い世界だもの」と柔らかく微笑んだ。
「で、話の続きなんだけど。松下先生の個人的なことはねえ、あまり聞いたことないのよ。今話したことで全部かしら。何か、困ったことになりそうな話なの?」
率直にそう聞かれて、自分でも考えこんだ。
「いえ……たぶん、大丈夫です」
俺の返事に納得したとも思えないが、瀬戸先生は頷いた。
「なら、いいわ。これから、病院?」
「はい」
「そう。安斎先生によろしくね。こんどお見舞いに行きたいんだけど……」
そこで瀬戸先生が困ったような笑みを浮かべた理由は、俺にも分かった。
祖母は、瀬戸先生の訪問を喜ばないだろう。
瀬戸先生に限ったことではなく、自分の入院中の姿など、誰にも見られたくないに違いない。
そういう人なのだ。
「千晶ちゃんに、よろしく伝えておいて」
「……はい」
かるく礼をして、俺は部屋を出る。

瀬戸先生が言うところの「千晶ちゃん」である、俺の母親が、もう三ヵ月も顔を見せていないというのは、教える必要のないことだ。
祖母の同僚であるだけのこの人に、そうでなくても、さんざん迷惑をかけてきた。
この人がいてくれたおかげで、俺は、学校を1年遅れる程度で済んだのだ。

「永ちゃん!」
廊下の向こうで、志村が手を振っている。
「ちょっとちょっと、頼むよ、教えてよ。俺、これから再テストなんだよー」
「再テストって、何の?」
そんなもの、あっただろうか。
「し・の・ざ・きの小テストあったじゃん。意地悪いヤツ。あれだよ、あれ」
「そうか、がんばれよ」
かまわず通りすぎようとしたが、志村に後ろから抱きつかれた。
「わー、見捨てないでくれ頼む!俺アイツと相性わるいんだもん」
「相性は関係ないだろ……」
呆れて、相変わらず制服のだらしない志村を見やった。
図体は大きくなっても、こいつの言動は中学生のチビだったころと、まったく変わらない。
「答えだけ教えてやるから、丸暗記しろ」
「えー、ちゃんと教えてよ」
「数学は基礎の積み重ねなんだよ。お前に教えてたら、三年たっちまう」
「ひでえー、ああでも、なんでもいいから教えてー」
半泣きの志村が差し出すテスト用紙は、俺自身は記憶にもないような、設問が五問だけの簡単なものだった。
再テストを言い渡されるだけあって、一問もまともに書けていない。
ノートを下敷きにして、立ったまま解答を書いてやっていると、篠崎真理が通りかかった。

「あ、それ問題変えたから」
にっこり笑って、長い髪をなびかせ、通り過ぎる。
唖然とする志村に、周りにいた女子が、笑い出した。
「……おれ、アイツと絶対、相性わるいと思うんだけど!」

志村の怒りをよそに、俺はまったく違うことを考えていた。
テスト用紙に書かれた、志村の名前。
志村正晴。
字は違うが、この手のかかる年下の同級生の面倒をみてしまうのは、名前のせいなのかもしれないと、ふいに自覚して、いやな気持になった。

俺は、そんなにも正春に連れて行ってもらいたかったのだろうか。

ここを逃れて、闇の中へ。

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