夏の檻(OVER番外編)

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<21>

いざとなったら、どもったり噛んだりするんじゃないかと思っていたのだが、意外なくらい、するっと言葉が出てきた。
「……ああ」
ただ頷くだけで、誰に聞いたとか、どこで聞いたとか、永ちゃんはそういう詮索はしない。


のんきなうちの高校でも、指定校推薦の枠はわりと注目されていて、誰が通ったとか落ちたとか、結構な話題になっている。
一般入試の場合と違って、校内での選抜でも大学側との面接でも、「この学部にどうしても入りたいです」的なアピールが必要だったりするので、永ちゃんが推薦を選んだのは意外な気がした。
この喜怒哀楽の薄い同級生が、熱意をこめて自分をアピールする図というのが、俺にはどうやっても浮かんでこない。
互いの進路についての話はしたくなかったので、俺がそっちの感想を言って笑うと、

「おまえ、もしかして、俺のこと相当どんくさいと思ってないか……?」

と、イヤそうな顔をする。
自分が他人にどう思われているか、何年も気がつかないでいられるのだから、どんくさいというかニブイのだが。
俺は、そういうところが良いなと思っていた。

何でも出来そうな顔して、意外と手先が不器用だったり。
痛いとか辛いとか、ちゃんと口に出して言えなかったり。そういうところが。

だけどそれは、本人に聞かせるようなことではないから、代わりに違うことを言ってみる。
「推薦の話、なんで黙ってたんだよ」
「なんでって……」
からかうような俺の口調に、珍しく、永ちゃんが困ったような顔をする。

だいたい、最初からおかしな話だったのだ。
あの夏の日、俺の家に見舞いにやって来た永ちゃんの手には、聞いたことのない私立高校のパンフレットが握られていた。


「うちの祖母さんが教えてた学校なんだ」
「へえ……ばあちゃんが」
「校則もうるさくないし、バイトも出来るし、俺はここにする」
「そっか。俺も行きたいなあ……」


そんなやりとりがあって、俺は試験科目の三教科だけは必死に成績を上げ、なんとか今の高校へ入った。俺の合格の知らせを聞いて、何故か担任の飯田が泣いたことまで、昨日のことみたいに覚えている。
最下位あらそいをしていたほどの俺の成績からしたら、とんでもない難関校だったわけだが。
生徒も教師ものんびりしていて、確かに良い校風ではあるのだが。
偏差値的には中の中もいいところの、特別に魅力があるわけでもない、学区から外れたその高校に、永ちゃんが行きたがる理由なんか、ひとつだってないはずだ。


「だいたいさあ、水くさいんだよ。『推薦とれて良かったな』くらい言わせろよ」
湿っぽくならないよう、俺はいつもの調子で文句を言う。
「おまえがいつ、そんな爽やかなこと言ったよ」
永ちゃんが、いつものような憎まれ口をたたいて。
「ひでえー、言う。言うよ。言わせろよ」
いつもみたいに、意味のない言葉でやりかえして、俺は笑う。

三年前にはどうしても出来なかったことが、今なら出来る。
何を言っても口がざらつくような気がして、ひどく虚しくて、腹の奥に冷えた塊があるような気がしたけど。
全部まとめて握りつぶして、俺は笑う。




早めに進学先を決めたのは、たぶん、母親のところを出て行く準備がしたかったから。
バイトにこだわっていたのも、部屋にあんなに荷物が少なかったのも、最初からあの家を仮の居場所だと思っていて、いつでも出て行けるようにしていたから。
そんなことも話してくれないのは、自分のこれからを俺が気にかけているなんて、思いもしないからだ。
気にかけているんだと、肝心なことはいつもはぐらかすばかりの俺が、言わなかったから。
言わなかったのは……俺にとって、ちょっとした本音を口にするのもこわいくらい、壊したくない日常だったからだ。





最近になって、よく「あの男」のことを考える。
仁科の大叔父だという、俺を暗い森に引きずり込んだ「あの男」。
あいつは「俺はやってない」と言っていたけど。
樹に揺れていたあの死体、あれが自分から死を選んだ、あいつの母親だったんだとしたら。


やっぱり、おまえのせいじゃないか。
この世にひとりきりの味方だった大事な人を、そこまで追い詰めて死なせたのは、おまえじゃないか。
その人さえいればいいとか言って、いつもいつまでも、べったり寄りかかっているから
そんなふうだから、おまえはそのたった一人さえ、守ってやれなかったんじゃないのか。


――俺は、そんなのはイヤだ。


電車が轟音をたてて、反対側のホームへと滑り込んできた。
よかったな、とか言って、ふつうの友達らしく笑って、じゃあまた明日と手を振るはずだったのに。
改札を通ったあたりまでは、くだらない冗談に笑っていたはずなのに。
気がつくと、俺は黙り込んでしまっていた。
「……中学のころさ」
横に立つ永ちゃんが、口をひらいた。
「俺、よくおまえの担任に呼び出されたんだよな」
「あー、……葛西だろ?」
忘れもしない、あの教師の自信たっぷりな顔を思い浮かべながら俺は言った。
あいつの名前を口にすると、今でも自然と口元が歪むんだから、たいしたもんだ。
「そう、葛西。おまえの担任には必ずいろいろ言われてたけど、あの先生が一番しつこかったなあ」
「……必ずいろいろって」
「おまえに勉強するように言えとか、授業に出るように言えとか、いろいろ。葛西先生は、ちょっと違ってた。俺がおまえを甘やかすからダメなんだって、俺がおまえを依存させて自分の寂しさを埋めてるんだって、言われたよ」
「そんなの、あいつの――」
俺の頭に、カッと血がのぼった。
そんなの、あいつの勝手な言いがかりじゃないか。
永ちゃんは、まっすぐ前を向いたまま、こう言った。
「そうかもしれません、って言ったんだ」
「え?」
「そうかもしれない。考えたら、俺の家族って、おまえと祖母さんくらいだったんだよな……」
俺は、あっけにとられて、その横顔を眺めていた。
「俺は……一緒に住んでないけど」
いきなり家族ワクに入れられたことにびっくりして、阿呆なコメントをしてしまう。
永ちゃんは俺でなく、空のどこか遠くのほうを睨むようにして、
「俺は母さんとより、おまえと飯食った回数のほうが多い気がする。だから、おまえに甘いって言われてもなあ……何が普通なのか、分からないからさ」
真面目な顔で、そう呟いた。


もしかして、俺はいま、百年に一度の場面にでくわしているんじゃないかという気がした。
自分が死にかけた時だって、ばあちゃんが亡くなった時だって、弱音ひとつ吐かなかった永ちゃんが、自分の気持というやつを話すのを聞くのは、冗談抜きで……これが初めてじゃないだろうか。


「だから、そうかもしれませんって、先生に言ったらさ。もう帰っていいって言われて、あれから不思議と呼び出されなくなったんだよな……なんでだろうな」
永ちゃんは考え込み、俺はその場面を想像してみた。
葛西の話術は巧みだった。喩え話なんかを織り込むのも上手で、いつのまにか相手を誘導して、自分の言わせたいことを言わせてしまう、そういう駆け引きの出来る人間だった。
話しぶりまで、俺にはまるで実際にその場面を目にしたように浮かんでくる。


(きみのそれは、志村のためじゃなくて、自分のためなんじゃないのかな?)
(そうかもしれません)


「それはさあ……」
思い描いた印象のままに、俺は言った。
「それがどうした、ってカンジの返事だよな……」
「えっ、どこが?」
永ちゃんが、びっくりしたように俺を見た。
「どこがって」
葛西も俺と同じように、会話の主導権を握りたい人間だ。自分が持って行こうとしていた結論より、ずっと手前でそんなふうに言われたら、それもこんな涼しい顔で言われたら、逆にものすごく……言い負かされたような気がするんじゃないだろうか。
「永ちゃんて、すげえな」
想像しているうちに、なんだかおかしくなってきて、笑いがこみあげてきた。


俺が言い返すだけでは足りなくて、あんなことまでしでかしたのに。
たった一言の肯定で、葛西みたいな手ごわいやつに、勝てるのか。
「なに笑ってんだよ。やっぱり俺が悪かったのか?」
困ったような顔をするので、俺はますますおかしくなって、肩を震わせて笑った。
家族みたいなもんだと言われて、腹の奥にあった冷えた何かが、あっさりと溶けていく。


本人がくれたつもりはなかったとしても。
俺が持っているもののほとんどは、永ちゃんからもらったようなものだ。


仁科が俺につっかかってきたわけが、今はなんとなく分かる気がする。
俺はたぶん、甘やかされた幸せ者で。一人前みたいな顔して、文句ばっかり言いながら、
なんにも説明しようとしないこの友達に、いつだって小さい子供みたいに守られてきた。
だけどそれも、もう終わりだ。
いきなり終わりになるものではなくて、たぶん、こうやって少しずつ手放して、少しずつ終わっていく。
この寂しさも、いつか薄れて、消えて行く。
それでもいいやと、初めて思った。


「おい、志村」
「笑ってない、笑ってない」


笑いながら、俺は電車へ乗り込んだ。






(了)
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