夏の檻(OVER番外編)

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<19>

振り上げられた刃物が、ぎらっと白く光った。
逃げられない。
肩にのせた、冷たくなった永ちゃんの体は、ぴくりとも動かない。
俺が仁科を呼んだのは、べつに何か確信があるわけでもない、ただのヤケクソだった。
ところが、空気を引き裂くような――何か、ものすごく上空から、まるでミサイルが飛んでくるようなキーンという音がして。
俺の周囲の黒々としていた森の樹が、いっせいに燃え上がった。



「あちっ」
いきなり目の前に火柱が立ち、俺は飛びのいた。
逃げる先、逃げる先がつぎつぎと燃え上がるので、どっちへ行っていいのか分からず、とりあえず火のない方向を目指して走るしかない。
どうなってんだ、ちくしょう。
口の中で文句を言いながら、気になって仕方がないのは、肩にかついだ永ちゃんの体だ。
いくら永ちゃんがやせてるにしたって――軽すぎないか?
さっきから、どんどん、軽くなっているような気がする。
こうして走りまわっているうちに、どんどん、どんどん、軽くなっていく。気がする。
「……ちくしょう」
火の粉を払いながら、俺は何百回目かの罵りを口にしていた。
こんな、どこなのかも分からないとこで焼け死ぬなんて、冗談じゃない。
生きている気配のない、冷たい体を抱えたまま、俺は出口をさがして走り続けた。
煙にむせながら逃げまわる俺の前に、何度も繰り返し、幻のように「あの家」が現れる。
現れるたびに、その見かけは違っていて、土蔵のようだったり、小屋のようだったり、大きかったり、小さかったりしていたけれど、俺を誘い込もうとする「あの家」であることは分かっていた。


そこへ駆け込めば、安全なことは、知っていたから。
絶対に永ちゃんを連れて戻るつもりでいたから、俺はそうしなかった。
何の心配もなく、時間の感覚もなく、ずっとずっと永久にいられる場所だと。
二度と脱け出せない檻だと、知っていたから。






「火事なんて知らないわよ」
気がつくと俺は、またしても例によって地面にぶったおれていて、無意識のうちに仁科に文句を言っていたらしい。
学校の裏の林の、あの場所。永ちゃんが何か建っていたのではないかと言っていた、四方に樹のない草むらに、俺は大の字になって伸びていた。
夢の中と同じような真っ暗闇の中、仁科の手にした懐中電灯だけが、唯一の明かりだった。
乱暴なことしやがって、火をつけたのはおまえだろうと、うわごとのように言い続ける俺に、腕組みして俺を見下ろしていた仁科は、「踏みつけてやろうか」という顔をした。
「だから、あんたが見てるのは、あんたの単純すぎるアタマが勝手に具象化した、分かりやすい絵本みたいなもんなの。実際に私がやったのは、全然ちがうことなの。分かる? だいたいねえ、こんな時間にこんな所まで来てやったのに、なんだって文句言われなきゃならないのよ。 ちょっと、ねえ向坂くん、こいつになんとか言ってやってよ」
「……大丈夫か?」
ガサガサと草を分ける音がして、仁科の後ろから顔を出したのは、なんとさっきまで俺が肩に担いでいたはずの、永ちゃんだった。
手を伸ばして本物かどうか確かめようとしたのだが、鉛みたいに腕が重くて、まったく持ち上がらずに、地面にぱたりと落ちてしまう。
「おい、ほんとに大丈夫か?」
ひんやり冷たい、だけどさっきとは違って生きて動いている手が、俺の頬をぴたぴたと叩く。
「だから、もう夜中にうちの庭から入って来たりするなよ。タカハタさんなんか、大変だったんだから」


だれだ、タカハタって。
言いかけて、ああ、そういえば永ちゃんちの向かいの家が高幡とかいったっけ、と思い出す。
だけど、何が「だから」で「入って来たりするな」なのか理解できずに、俺はぼんやりと永ちゃんの顔を見返した。
「お母さんに聞いたぞ。おまえ、子供のころ刺されたことがあるんだろ? みんながみんなじゃないけど、二度目だとアレルギー反応を起こす場合があるって言うし、念のため医者に行って抗体検査受けとけよ」
「それ、何の話……?」
仁科との会話以上に、何から何までちんぷんかんぷんなことを言われて、俺は自分のアタマがおかしくなったのではないかと、心配になってきた。
「だから、スズメバチだよ。このまえタカハタさんちの子供が刺されて、庭の周りのどこかに巣があるみたいなんだけど、いまだに見つからなくて……って、うちの祖母さんから聞いてないのか?」
ようやく気がついたように、永ちゃんは眉を寄せた。
スズメバチ?

「聞いてねえよ……」

ぐったり疲れて、俺は目を閉じた。
スズメバチ。そうか、だから、ばあちゃんは自分ちの庭であんな重装備で、水まきなんかしてたのか。
俺には確信があった。
ばあちゃんも、この孫とまったく同じことを言うにちがいない。
「永一から聞いてなかったの?」
ああ、ここんちの人間は、どうしてこう……。



わけのわからない呪われた場所から、命からがら戻って来てみれば。
心配してくれていると思っていた永ちゃんが実際に心配していたのは「その事実」でなく、そのせいで俺が深夜に庭に駆け込んで来たりして、「ハチに刺されてしまうこと」だという。
どういうオチだ。
俺のここ数週間の苦悩は、なんだったんだ……。
いいや、俺は実際に、危険な生死の境をさまよっていたはずだ。はずなんだけど。
「志村、こら」
この一件を締めくくったのは、まるで母親のような永ちゃんの、緊張感のない、このセリフだった。
「ばか、こんなとこで腹出して寝るなよ。風邪ひくだろ」






あっという間に、二学期になった。
言っておくが、これは比喩なんかじゃない。

あれから俺は本当に40度の高熱を出し、何日も何日も寝込むハメになったのだ。
何日も寝込んでいたおかげで、すっかり体力が落ちてしまい、熱が下がってからも家でうだうだとしているうちに、夏休みは光の速さで通り過ぎた。
俺が家にいるおかげで、母さんとの関係がなんとなく良好になったり、
家から出られないせいで、エイコさんとはなんとなく疎遠になったり、
口ごたえをする元気もないせいで、心配した親父が薄気味わるいくらい優しくなったり、
俺に寄り付かなかったリリーが、何故か今度は枕元を離れなかったり、
何らかの責任を感じているらしい永ちゃんが、きっかり一日おきに見舞いに現れたり、
祖父さんが元気よくやって来て、「この軟弱者が!」と俺に活を入れたり、
……まあ、全体的には、良いことのほうが多かったのかもしれない。



今度こそ、あの世へ行きかけたような気になったけれど、夢の中でさえ「あの家」や「あの男」が二度と現れることはなく、熱に浮かされた俺は、何度もあの場所のことを考えた。
どうしても気になっていて、仁科に聞いてみたいことがあったのだが。
新学期で顔を合わせた仁科麻紀は、ごく普通の同級生の顔になっていて。
俺を無視することもないかわりに、特別な関心を見せて話しかけてくることもなくなり、席替えがあってからは、もう挨拶をかわすことさえなくなっていた。


「あれー、志村じゃん!」
廊下でいきなりバシンと背中を叩かれ、振り向いたら、やっぱり中津川だった。
「……よう」
俺がふつうに挨拶を返したのを見て、廊下にたむろしていた名前も知らないような連中が、驚いた顔をする。
自分で思っている以上に、俺の評判てやつは悪いらしいなと気がつくのは、こういう瞬間だ。
そんなことはまったく気にならないらしい中津川は、「ひさしぶりー」と言って、ガハハと笑った。
「おまえ、その腕……」
俺の目を引いたのは、やたらと短いスカートから見える、たくましい足なんかではなく、右腕を吊った白い布だった。
「あ、これ? あの後さあ、ちょっとアクションしちゃって、車から飛び降りたら、骨折っちゃってさ。よかったよー左利きで」
「……飛び降りた?」
中津川の言う「あの後」というのは、俺がバス停で見かけた夜のことだ。
タチの悪そうな男と言い争っていて、白いランサーに乗せられて走り去るのを、俺はだまって見送った。
あの車から、飛び降りたっていうのか?
「ありがとね」
中津川は、小さな声で、そう言った。
一度目はわざと、二度目はただなんとなく、見捨ててしまったはずの女に何故かあらたまって礼を言われ、俺はポカンと口をあけた。
中津川は、自由になる左手で、そっと右の腕を撫でた。
「ああいう時ってさ、みんな見て見ないフリするじゃん。あんなやつのこと、ちょっとイイとか思って付き合ってたあたしが、バカだったんだけどさ……」
「俺は、べつに」
なんにもしてないし。
謙遜でもなんでもなく、俺は何もしていない。
それどころか、あの出来事が後ろめたくて、中津川と顔を合わせたら文句のひとつも言われるんじゃないかと思っていた。
それはまだ良いほうの想像で、悪くすれば、アホ彼氏に薬漬けにでもされて、こいつとは二度と顔を合わせることもないんじゃないかと、そんなふうに思っていたくらいなのだ。
「みんな知らんぷりで、通り過ぎて行って、あたしなんか見えなくてさ。そうされてたら、自分でも自分なんか、どうでもいいような気がしてきちゃうんだよね、だから……だからさ」
中津川は、小さく笑った。
「あの時、声かけてくれて、ありがとね。こいつから逃げてやるぞって、元気が出た」
言うだけ言って、照れたように「んじゃね」と手を振ると、中津川はバタバタと駆けて行ってしまった。


アホか。
だからって、車から飛び降りるやつがあるか。ふつう、骨折じゃ済まないぞ。
ホントにアホか。
俺に礼なんか……アホか。

小さくなっていく中津川を見送っていたら、スカートがひらひらして、視力1.5の俺の目に、べつに見たくもないパンツが見えた。
おい、もっと趣味の良いパンツをはけ。
心の中で呟き、俺は背を向けた。
開け放した廊下の窓から入ってきた風が、俺の頬を撫でていった。


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