夏の檻(OVER番外編)

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<18>

追われながら、走り続ける。
雨にぬかるんだ地面に足をとられ、何度も転ぶ。
いつの間にか「あの男」は俺になり、俺は理由も分からないまま、逃げ続ける。
「俺じゃない」と叫んで。
泥だらけの手で顔をこすり。
泣きながら。



上を見上げると、あの影が見えた。
俺が降ろしたはずの死体が、樹の上でゆらゆらと揺れている。
悲鳴をあげたのは、その影が、さっきの死体ではなかったから。
雲が切れ、弱い月の光に照らされて見えた、青白いその顔が。
「……永ちゃん!」
吊るされていたのが、その人だったからだ。



思い出したのは、数週間前の夜のこと。
あの日、俺は親父ともめて、殴りあいになり、家を飛び出して、学校裏の林の横を通りかかった。
最初から家を出てくるつもりではなかったから、金も持っていなければ、携帯もない。
イライラして、むしゃくしゃして、殴られた顔が痛くて。
本当は、親父を殴りつけてしまったことに、ひどく動揺していて。
永ちゃんの家に行きたいけど、いつまで泣きつくつもりなんだと、自分の声がして。
そんな時に雨に降られ、木の下へ隠れようと逃げ込んだ林の中で、俺は。
仁科が言ったという、「今はもう無いはずの」場所へ、俺は引きずり込まれたのだ。



頬を叩き続けた。
震える声で、何度も何度も名前を呼んだ。
慌てて樹から降ろした永ちゃんの体は、固く、冷たくなっていて、まるで石を叩いているみたいだった。
(俺じゃない)
気がつくと、肩に手が置かれていて、また背中にぴったりと「あの男」が張り付いていた。
重さをちっとも感じない、弱々しい手の感触。
たったそれだけなのに、俺の体は強張って、動かなくなる。
(俺がやったんじゃない)
耳元で、怯えた声で男がささやくのは、同じ言葉だ。
俺じゃない、俺のせいじゃない、こんなこと、俺がやったんじゃない――

「……うるせえな!」
永ちゃんの、息をしていない顔を見た。
ちくしょう、と泣きたくなった。
これが、俺のせいでないわけがあるか。
俺のしてきたことの結果がこれだ。
なんにも責任をとらないで、逃げつづけてきたことの結果がこれだ。
「どけ!」
いつのまにか自由になった腕を振り回して、男を払いのけ、立ち上がった。
まるで煙みたいに男は消え失せてしまっていたけれど、そんなことはどうでもいい。
永ちゃんの体を肩にかつぎあげ、空を見上げた。
月はまた隠れてしまっていて、空は暗い。
どっちへ歩いたらいいのか分からず、そもそもこの空間に方向なんてものがあるのかどうかさえ分からないまま、俺は歩き始めた。
出口はどこだ?
入って来たんだから、出口だって、この森のどこかにあるはずだ。
左肩に乗せた、永ちゃんの体を確認するように、もう一回抱え直した。
その軽さがこわくて、心臓のあたりがキリキリと痛み、呼吸が苦しくなる。


(俺が、おまえくらい、面白いことが言えたらいいんだけど)


ばあちゃんと上手くいかないことだって、一緒に住んでいない親のことだって。
永ちゃんは、一度だって、誰のせいにもしなかった。
葛西が言ったみたいに、完璧に出来た人でも、大人なわけでもない永ちゃんが、なんにも不満がないわけがない。
たぶん、うんと我慢をして。
俺に「大人になれ」と言うみたいに、いつだって自分に言い聞かせて。
夢の中でしか泣けないような。
俺にも誰にも言わないでいることが、あるはずだ。


「いたか?」
「こっちだ」


バラバラと、複数の足音がして、取り囲まれたような気配がした。
また、この展開だ。
俺は毎回、この森の中で、「あの男」になって追われて逃げまわり、捕まりそうな場面で目を覚ます。
だけど、今回にかぎっては、夢から覚める気配はまるでなく、俺を取り囲んだ気配は少しずつ輪を縮め、じりじりと近づいて来た。
暗闇の中、白っぽく光っているのは、人の両目か。
それぞれが手にしている曲がったものは、ただの棒きれなのか、ナタなのか。
「仁科!」
声を張り上げて、俺は叫んだ。
それでおまえの気が済むんなら、土下座だってなんだって、何回だってやってやる。
届くかどうかも分からない大声を、俺は空に向かって投げつけた。


「さっさと助けろ、ばかやろう!」


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