夏の檻(OVER番外編)

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<17>

首をまわして、そっちを見なくても、あいつだというのが分かる。
水たまりに映った、気弱そうで、生気のない、あの男。
夢の中で、大勢の人間に追いかけられ、雨の中を逃げまわっていた、あの男。
俺の肩に手を置き、ぴたりと背中に張り付いている男の顔を、俺はありありと思い描くことができる。

眠っていたわけでもなければ、あの教室での時のように、何かの境界を踏み越えたような感覚もなかった。
俺はいつの間に、こんなところへ迷いこんだんだ?

頭のほうはハッキリしているつもりなのに、俺の体はびくともしない。
この薄気味の悪い男から離れたいのに、大声で文句を言ってやりたいのに、指先ひとつ動かすことが出来なかった。
(あれが見つからないうちに、逃げないと)
男が、囁いた。



「進路のことなんだけど。ええと、だいたいのラインは決めてあるのかな?」
担任の飯田が、手にした紙きれを見ながら聞いてくる。
そんなにじっくり見たって、そこには何も書いてないんだが。
何も書いてないから、俺はこうして呼び出されているわけなんだが。
飯田のやつは、俺の顔をまともに見るのが恐いらしい。

まだ五月になったばかりの、放課後の職員室。
生徒や教師がかわるがわる出入りする、授業終了直後の、にぎやかな時間帯だった。
目の前のイスに座った、落ち着かない様子の飯田をじっと見る。
視線を感じているらしいのに、まだ顔を上げようとしない。
俺を呼び出すのなら、教科準備室とか教室とか、それこそ静かな進路指導室なんかもあるはずなのに、わざわざここを選ぶというのが、この男の気の小さいところだ。
「……ラインって?」
俺が言葉を発したことに驚いたように、飯田はこっちを見た。
「あ、あの、そうだね。偏差値のこととかじゃなくて、学校の特徴。こういう部活が強いところがいいとか、こういう科目があるところがいいとか、だいたいの希望はあるのかな、ってこと」
暑くもないのに、汗をかきながら、飯田は言った。
「学校名を無理に書けとは言わないから、そういうのを探してみてくれないかな。べつに、おおげさなことじゃなくてもいい。マラソン大会がイヤだから水泳大会のあるところがいいとか、そういうのでも」
あるのか、そんな高校。
俺のうさんくさそうな表情を見て、飯田は焦ったように言った。
「いや、これは冗談じゃなくて、去年の受け持ちで、そう言って来た生徒がいたんだよ。競歩大会のあるところしかなかったんで、そう答えたけど……」
懸命な飯田の説明に、俺はふっと笑ってしまった。
笑った俺にホッとしたように、飯田は緊張をといて言う。
「だからさ、考えてみてくれよ。志村の希望に沿ったところを、探す手伝いをするから」
その言葉に、俺は口の端だけで笑った。
こいつはさえない気の小さい男だけど、葛西なんかにくらべたら、ずっとマシな教師かもしれない、と思って。
だけど、無理だ。
俺の望みは、部活でもカリキュラムでも制服でもない。
適当に書いておけばいいはずの、進路調査の紙きれなんかを前にしてすくんでしまったのは、一年先の未来を想像してしまったからだ。
一年後には、もういない。
「おまえなあ」と、いつも呆れた顔をするくせに、いつだって俺を見捨てない、永ちゃんは、もういない。


――明日なんか、来なければいい。


そう思い始めたのは、たぶん、あの日からだ。




(あれを下ろして、隠さないと)
呟くように言って、俺にぴたりとくっついた男は、樹の上を指す。
そこでさっきからブラブラと揺れている影は……人間の、女のように見える。
男の言いなりに、俺の体は動き始めた。樹に足をかけ、人影が吊るされている太い幹まで登り、手探りで縄をほどく。
(抱えて、降りるんだ)
下にいる男が、命令する。
ふざけんな馬鹿野郎、だれが首吊り死体なんか抱いて降りるかよ。と言いたかったのだが、思っただけで声にならず、俺の体は意志と関係なしに、吊るされた死体を引き上げていた。両手で抱えて樹を降りるのは不可能だと判断したのか、俺は女の体を左肩にかつぎあげ――奇妙な感触を受けた。


なんだ?
手足はほっそりしているのに、腹だけ……。


「いたぞ!」
鋭い叫びが聞こえて、下で待っていた男は悲鳴を上げた。
俺じゃない、と言った。
母さんを殺したのは、俺じゃない。

「待て」
「こっちだ」

叫び声に追い立てられるようにして、死体をその場に放りだしたまま、俺と男は逃げ出した。
暗い暗い、森の中を。

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