夏の檻(OVER番外編)

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<16>

「共依存って、聞いたことある?」

教室の窓から、初夏の爽やかな風が入ってくる。
担任教師の葛西が、穏やかに微笑んでいる。
「たとえば、問題を抱えた人がいるとするね。だけどその人には、いつもいつも、自分に代わって、問題を解決してくれる人がいる。一見したところ、問題を抱えた人のほうが、頼っているように見えるんだけど……誰かに尽くし、犠牲になることによって、自分の存在意義をつくりだしているのは、解決してくれる頼もしい人のほうなんだ」
さて、と葛西は手にしていたペンを、くるりと回した。
「志村は、どう思う? これが本当の友情だったり、愛情だったり、すると思う?」




「くそ、やっぱ出ない」
永ちゃんの携帯を何回呼び出しても、「電源が切れているか、電波の届かない場所にいます」が流れるばかりだ。
家のほうの番号へかけようとして、ばあちゃんの顔を思い出し、あきらめた。
こんな夜遅くに叩き起こされたら、さすがにばあちゃんも怒るだろう。
もう日付が変わる時間だ。永ちゃんは家にいて、携帯電話の電源も切って、眠っている――はずだ。
そう考えるほうが普通だ。
それなのに。
イヤなイヤな、うんとイヤな予感がする。



祖父さんのマンションを飛び出した俺は、駅前で、これだけはしないだろうと思っていた犯罪に手を染めた。
早い話が、そのへんにあった自転車を、まあちょっと、無断で借りたわけだ。
無灯火でいちいち注意されている場合じゃないので、状態の良い、鍵の壊しやすいタイプのやつを選び出し、俺は夜道を急いでいた。
ここから、あの学校の裏の林まで、どれくらいかかるだろう。
住宅地の細い路地を抜け、河川敷を通り、まだその先へ。
息が上がって、汗が流れ落ちる。



バカみたいだ。
こんな熱帯夜に、誰ともすれちがわないような真夜中に、必死に自転車なんかこいで、俺は何をやっているんだ。
夜が明けたら、仁科の家に行って、さんざん文句を言ってやる。
知ってるくせに知らない顔をして、勝手に腹を立てて、わけのわからん仕返しまでしやがって。
朝になったら、あいつの家まで行って、絶対に死ぬほどたくさん文句を言ってやる。
仁科へ言ってやることを数え上げながら、俺は止まることなく、必死に自転車をこぎつづける。
全ての原因があるはずの、あの場所、暗い林の奥を目指して。



薄暗い外灯に浮かび上がる、曲がりくねった細い道を走り続けて行くうちに、なんだか頭が痛くなってきた。
暗くてまわりが見えないせいか、夢の中を走っているみたいに、だんだんと現実感がなくなっていく。
(落ち着いて見えるけど)
俺は何かを振り払うように、左右に頭を振った。
(落ち着いて見えるけど、向坂はね)
(きみが思うほど大人なわけでも、完璧な人間なわけでもないんだよ)
どうかしてる。
こんな時に、葛西の阿呆が言ったことなんか、思い出すなんて。



去年の担任だった葛西が、ある日、そんなふうにやり方を変えてきたのは、俺が思ったような反応を見せなかったせいだ。
そもそもそれが勘違いであって、俺が無反応だったのは、何とも思っていなかったせいじゃない。
それまでの葛西のカウンセラー気取りにも、俺はうんざりしていたし、充分腹を立てていた。このクソ野郎がと思いながらも、それを顔に出さないよう、俺なりに、ずっと我慢をしていたのだ。
俺もずいぶんと、安く見られたものだと思う。
葛西は、あんなことを言うべきじゃなかった。永ちゃんに矛先を向けて、不信感を引き出せば、俺が言いなりになるとでも思ったのか。
当時の俺は、たいした悪事をしでかすわけでもない、誰に迷惑をかけていたわけでもない、ただクラスに馴染んでいないというだけの、普通の生徒だった。親父の名前が有名なのと、それまでの評判が悪すぎたせいで、相変わらず問題児扱いを受けていただけのことだ。
そんな俺をいちいち呼び出しては、「クラスの友達をつくるべきだ」と押し付けがましい理屈を展開する、葛西というやつ。

永ちゃんが歪んだ人間だと言うのなら、おまえは一体、何なんだ。
おまえの腹の奥にある、俺をねじ伏せて思いどおりにしたいという、その欲求は何なんだ。




「そんなに後悔するんなら、もうするな」
永ちゃんは言うけど。
葛西にしたことを後悔したことなんか、一度だってない。




「……いたか?」
「いない。いないぞ」
怒鳴りあう声が聞こえて、俺は自転車を止めて、片足をついた。
足を置いた地面の、ぬるっとした土の感触に、ぎょっとする。
さっきまで、舗装された道を走っていたはずだ。
学校は小さな橋を越えた向こうに建っていて、ここはまだ、あの林じゃないはずだ。
俺は自転車を降りて、辺りを見まわした。
でこぼこした、足元の地面。鬱蒼としげる草と、黒々とした影のような木立。
どこでどう迷い込んだのか、俺は森の中にいた。



ぽつりと、俺の手の甲に水滴が落ちる。
汗か、いや雨かと見上げた先に、奇妙な物が揺れていた。
太い枝に吊るされて、ブラブラと揺れている、あれは――


(……あれが見つからないうちに、逃げないと)
囁くような、弱々しい声がして、俺の肩に手が置かれた。
――A表の線内の土地には、立ち入らないこと。
永ちゃんに渡された古い地図の、線が引かれた部分は、倉田家が所有していた林地だった。
今はもう宅地になったり道になったりしている、うんと昔は、森であった場所。
あんなに注意されていたというのに。
俺は自分からそこへ飛び込んで、そして、つかまった。


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