夏の檻(OVER番外編)

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<15>

祖父さんの家に行きたいと言い出した俺に、母さんは怪訝そうな顔をした。
「お祖父ちゃまのところ? 明日じゃ駄目なの?」
駄目だ。
明日じゃ遅い。
イライラして怒鳴りたくなるところを、どうにかこらえて、「明日にするよ」と約束して、かわりに祖父さんの新しい住所と電話番号を手に入れた。
ひとつ譲歩して、ひとつ要求する。
そうすれば、事は意外とスムーズの運ぶのだ。
いつもがむしゃらにワガママを通しては、いちいち母さんに泣かれたり引き止められたりしてウンザリしていた俺にとって、これは意外な発見だった。



「……まあ、ウソなんだけどな」
もう寝るからと母さんを追い払い、俺はこっそりと家を脱け出していた。
これがバレたら、俺はなけなしの信頼を失い、母さんはまた不安定になって寝込んでしまうのかもしれないけど――「時間がない」という、理由のない強烈な危機感が、俺を動かしていた。



のんびり朝を待っている時間なんかない。
急がなきゃ、ダメなんだ。



近所のアパートに隠してある原付のことが頭に浮かんだが、道中で補導されたり職質された時のことを考えて、まっとうな移動手段を選ぶことにした。バスと電車なら、誰も文句は言えないだろう。
ところが、そのバスが駅前に到着した時のことだ。
「ちょっと離してよ! 乗らないってば!」
ステップを降りた俺の耳に、どこかで聞いたような声が飛び込んできた。
通りの向こうの車の横で、もめている若い男女がいる。
その大声に驚いて足をとめたバスの乗客たちも「なんだ痴話ゲンカか」という顔になり、歩き出す。
同じように歩き出した俺は、ふと気になって後ろを振り返った。
どこかで見たような、白い車。女のほうの、あんまり細くないシルエット。ガラガラと低い、野太い声。
そうだ、あれは――

「……中津川?」
思わず声を張り上げた俺に、女のほうがハッとしたように動きを止めた。
その時、ちょうど停留所へと入って来た大型のバスが、俺の視界を塞いでしまった。
時間にして、ほんの二、三分のことだ。
バスが乗客を降ろしている間に、あのエンジン音が聞こえ、白い車が通りを横切って行った。
バスが移動して、再び開けた俺の視界には、無人の街角があるだけだった。




「えーと、103号室……」
祖父さんの現在の住居だという、真新しいマンションのエントランスで、俺は部屋の番号を呼び出した。

インターホンが呼び出しを続けているうちに、だんだん、不安になってくる。
ここ何年か、口うるさい親戚連中が集まるような席には、俺はまったく顔を出していない。
そういうわけで、当然、祖父さんとも会っていない。
祖母さんがまだ生きていたころは、母さんに連れられて隣町の実家へとよく遊びに行っていたのだが、それはもう10年以上も昔の話だ。
「行きたいって言っても、お祖父ちゃまの家は、もう昔みたいに虫が採れたりしないわよ?」
という、母さんの言葉に笑いたくなったが、要するに俺と実家に関する記憶は、俺が虫採りに夢中になっていたガキのころしか無いってことだ。
こうやって、よくよく考えてみると、俺がここでいきなり孫だと名乗ったところで……分かってもらえないんじゃないだろうか。
電話であれこれ事情を説明する自信がなかったので、いきなり来てしまったものの、前もって連絡しておかなったのはまずかったか――と、カメラがあるらしい位置を睨みつけていたところ。
「……正晴か?」
インターホンから、しわがれた声が聞こえて。
あっけなく、目の前のガラスの扉が開かれた。





俺の母親は7人兄弟の末っ子で、今の俺の家が建っているあの土地も、もともとはこの、母方の祖父さんの持ち物であるらしい。
どういういきさつによって、ウチの親父の物になっているのかナゾなのだが。
それを言うのなら、可愛がっていた末娘を親父みたいな男と見合い(見合いで結婚したんだそうだ)させる、祖父さんの神経というのもよく分からない。
商売で苦労した人だと聞いているから、人柄の良さなんかではなく、クソ親父のゴキブリ並みにしぶとそうな生命力を買ったのかもしれない。


「まだか」
「……まだだよ!」
遠くからの祖父さんの呼びかけに、俺は怒鳴り返した。
どうでもいいけど、このやりとりはこれで三回目だ。
人間てやつは、トシをとるとせっかちになるもんなのか。
とりあえず茶を淹れろと命じられ、俺はひとり台所に立っていた。
永ちゃんちとは全然ちがう、最新式の設備をそなえた、ピカピカのシステムキッチンだ。
客に茶をいれさせるのかよと文句を言ったら、ひとが寝てるような時間に訪ねてくるやつが客なものかと叱られた。
記憶にあった頭の毛が、すっかり消えうせている祖父さんを見て、「大丈夫か?」と不安になったのだが、見た目ほどモウロクはしていないらしい。
俺がよくクワガタを探して遊びまわっていた、広大な庭を持つ家は、維持が大変だとかで売り払ってしまい、去年このマンションへと移り住んで来たのだという。
祖父さんは、一人暮らしだった。



「で、これがどうした?」
老眼鏡を取り出しながら、祖父さんは面倒くさそうに言った。
家から持ち出してきた永ちゃんの作った資料を、俺は祖父さんの前に広げて見せているところだった。
通された部屋は寝室に使っているらしい和室で、すでに寝ていたという言葉のとおり、本人は布団から半分だけ起き上がった格好でいる。
俺の記憶に間違いがなければ、俺が祖父さんとまともに口をきくのは、ざっと9年ぶりだ。
90年ちかく生きている人間にとっては、9年くらいたいした空白ではないのか、祖父さんの態度はこっちの力がぬけるくらい自然だった。
「おい、だから、なんだこれは。ボーッとしとらんで説明しろ」
……誰に対しても、態度がでかいだけなのかもしれないが。



「このへんの土地の古い話を聞かせてくれ」
という、曖昧な俺の要求に「なんだ、宿題か何かか?」と胡散臭そうな顔をしていた祖父さんは、俺が畳に広げた紙の中の一枚に目をとめた。
「これは」
祖父さんは紙を取り上げて、しげしげと見た。
「これは、倉田んとこの土地だろう。これがどうしたって?」
祖父さんの興味を引いたのは、永ちゃんが手紙で「A表」と書いていた古い地図だった。
「え、知ってんの? ホントに?」
ここらへんの古い話なら、役所の資料より祖父さんのほうが詳しいだろうと思ってはいたが、永ちゃんが「不明」だと言っていた、土地の所有者の名前があっさりと出てきたことには、びっくりした。
「ここ、この川が昔でいう大川で、このへんがお前の学校があるところで、この辺り全部が倉田の土地だ……おう、ちょうどこの赤線で囲ってあるところだな」
祖父さんが指さした赤線というのは、永ちゃんが自分で引いた線のことだ。


(しばらくは、A表の線内の土地に立ち入らないこと)


それまであまり気にとめていなかった、手紙の中の一文を思い出して、ぞくりとした。
永ちゃんは、倉田という家のことなんか知らないはずだ。
だったら、何を根拠にこんな線を引いて、しかも「立ち入るな」と注意するんだ?
「今は、その……倉田っていう家は? どっかへ引越したとか?」
俺の質問に、祖父さんはあっさりとこう言った。
「倉田の家? ああ、だいぶ前になくなったなあ。あそこは良くないことが続いて、分家しか残らなかった」
なくなった?
家がなくなる、という意味が理解できず、俺はポカンとしていた。
待てよ。
祖父さんは、ずいぶんあっさり言うけど、それはつまり……
「全員が……死んじゃった、ってこと?」
おそるおそる口にした俺に、他の資料を読み始めた祖父さんは、「ああ」と生返事をした。
「でも分家は残っとる。昔の家の、隣のうちがそうだ。おまえ、あそこの子とはよく遊んでいたなあ」
昔の祖父さんちの、隣の家が、そこの分家?
「おぼえてないけど……」
ミミズに紐をつけてレースをしたこととか、カブトムシの幼虫を食べようとしたこととか、しょうもない記憶はあるんだが……
記憶をさぐってみても、隣の家の子供のことまでは、出てこない。
仲のいい子供なんて、いたっけ?
思い出せずに考え込んだ俺を見て、祖父さんは豪快に笑った。
「なんだ、忘れたのか。もったいない。大きくなったら結婚するとか言ってただろうが。仁科のとこの孫娘たちはそろって器量よしで、近所でも評判で」
「……え?」
今、なんて言った。
「祖父さんちの隣の家って、まさか……仁科?」
「何がまさかだ。昔っから、隣に住んでいるだろうが」


口もきけないくらい驚いて、俺は放心した。
ああ。
ああ、そうだったのか。だから、仁科のやつ――


仁科麻紀の、わけ知り顔な態度や、俺への関心や怒りが、ようやく意味を持って、俺の中へと落ちて来た。
俺は本当に、なんにも見えていなかった。
俺がもっときちんと目を開けてさえいれば、さっきだって、すぐに中津川に気がついたはずなのに。
あれが痴話ゲンカでもなんでもなく、本当に嫌がっている叫びだと、聞き分けられたはずなのに。
「……ん? 何か聞こえないか?」
祖父さんの声に、俺は我に返った。
「テレビをつけたままにしてたかな? 聞こえるな……居間のほうか?」
「は? なんにも聞こえないけど」
反射的に答えてから、俺はぞっとした。
俺の耳には聞こえない、テレビの雑音のような音。


あれが、あれが追いかけて来た。



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