夏の檻(OVER番外編)

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<11>


音に脳が振動して、顎がガクガク揺れる。
雑音のような音は、高まり、引いていき、いきなり戻ってきて、波のように俺を揺さぶった。
ふっと体が浮くような感覚があって。
俺はひとり、何もない暗闇に、浮いていた。



足元のはるか下のほうに、ぽうっと小さな明かりが灯る。
そのまるい明かりの中で、何か黒い影みたいなものが動いている。
……なんだろう、よく見えない。
目を凝らしていると、まわりの空気が流れ始めた。
足元の明かりがどんどん大きくなり、近づいてきて、吸い込まれる――と思った瞬間、俺の足は地面を踏みしめていた。


――いたか。
――いない。逃げたのか。


大勢の人間が、口々に叫びながら、俺の横を走り抜けて行く。
叩きつけるような土砂降りの雨に、俺の体も濡れていた。
手のひらに目をやると、雨がこびりついた泥を洗い流して落ちていく筋が、はっきり見える。
(夢なのか?)
さっきまでの浮いたような状態と違うのは、はっきりと体の感覚があることだ。
踏みしめた足元が、ぬかるんでいるのが分かる。
暗い森の中を、俺は歩いている。
連れ戻される前に逃げなくてはと、俺は歩き続けている。


――いないぞ。
――どこだ。


みんなが捜しまわっているのは、俺なのだ。
遠くで悲鳴が上がった。
(アレが、アレが見つかったんだ)
慌てて、俺は走り出した。
この森の中のことなら、隅から隅まで、誰よりよく知っている。明かりなんか持たなくたって、見えなくたって、迷ったりしない。
それなのに、慌てていた俺は、うっかり木の根につまづいて、倒れこんだ。
(痛い)
水溜りにつっこんだ手が、ばしゃっと音をたてる。
水溜りの波立った表面に、俺の顔がうつりこんでいるのが見えた。
それが見知らぬ顔であることに、俺は悲鳴を上げる。
悲しい目をした、会ったこともない気弱そうな顔つきの男が、俺を見返していた。
男の目が言う。



この森の中のことなら、なんでも知っている。
だけど、と思う。
この森を出て、どこへ行ったらいいのかが、分からない――






暖かい何かが、俺の頭の後ろを支えていた。
それが永ちゃんの手のひらで、自分が教室の床に仰向けに倒れこんでいることに、俺はびっくりした。
「え……」
永ちゃん、と言おうとしたのだが、口がうまく動かない。手も足も冷たくこわばって、自由にならない。
なんなんだ、これは。
俺はいつから倒れてたんだ?
「……仁科」
永ちゃんが厳しい視線を向けた先には、無表情な仁科麻紀が立っている。
こんな時だというのに、制服のスカートから、すらりと伸びた仁科の足の形のよさに、俺は感心した。
「どうして戻って来たの?」
仁科の声には、あざけるような、挑戦的な響きがあった。
問いかける仁科の、教室では見たこともないような冷たい視線を、永ちゃんは黙って受けとめた。
ふたりの間の空気はピリピリと張りつめていて、だけど俺にはその理由が分からない。
倒れこんだまま、ぼんやり見上げていると、永ちゃんが口を開いた。
「もう一度、きちんと話をきこうと思ったんだ。さっきは悪かった。だけど……」
言葉を切って、仁科を見る。
表情も口調も変わらないのに、緊張のためか、俺を支えている手に力が入った。
「こんなのは、やりすぎだ」
自信たっぷりに見えた仁科の目が、揺れたように見えた。
それはほんの一瞬のことで、仁科麻紀は、すぐにクスクスと笑い始める。
「……びっくりしたなあ。向坂くんて、面白いこと言うね。分かっているんだか、分かってないんだか」
「仁科」
「そんなに怒らないでよ」
責めるような永ちゃんの呼びかけを笑顔でかわして、仁科は踊るように軽い足取りで近づいてくると、倒れたままでいる俺を覗き込んだ。
「ほら、大丈夫そうじゃない。そろそろ意識が戻るから、起きたら水でも飲ませて、熱射病だって言ってやって」
はい、と言いながら、永ちゃんの手にペットボトルを押し付ける。
会話の方向がさっぱり見えないが、俺の目がとっくに覚めていることに、ふたりとも気がついていないらしい。
「じゃ、せいぜい頑張って」
「……どうしてこんなことをするんだ」
教室を出て行こうとする仁科に、永ちゃんが言う。
仁科は肩越しに、こっちを見て、笑った。
「私はなんにもしてない。ただちょっと、この小さい空間のガードを下げただけ。さっさと解決しないと、こんなことがしょっちゅう起きるようになるかもしれないけどね」
「解決って……」
「さあ、拝み屋でも探したら? 言っとくけど、向坂くんに出来ることはないと思うよ。志村が頭をさげてお願いしますって言うんなら、考えてあげないこともないけど」
まあ、そんなこと言わないだろうしね、と付け足して、仁科は出て行った。



俺がなんだって?
仁科は何を言ってるんだ?
何がなんだか、ぜんぜん分からない。



俺の後頭部を支えている永ちゃんが、小さく息をつくのが聞こえた。
ようやくはっきり目を開けて、「永ちゃん」と呼びかけると、まるで他人の声みたいな掠れ声が出た。
「永ちゃん、おれ……どうしたんだろ」
俺と目が合うと永ちゃんは、「ばかやろう」と言葉とは裏腹な、力のない声で言った。
「俺が知るか。……熱射病だろ」
分からないなりに、その言葉が仁科がすすめた嘘であることを知っていた俺は、つい笑ってしまった。
「なに笑ってんだ、おい、大丈夫か?」
そんな俺を見て、珍しく永ちゃんがうろたえる。
馬鹿みたいだけど、どういうわけなのか俺はそれにホッとして、眠くなってしまい、目を閉じた。


ああ、こいつは本当に嘘つきだ。
だけど俺がそれを責める気になれないのは、いつだってそれが……優しい嘘だからだ。
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