夏の檻(OVER番外編)

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<10>

仁科麻紀が俺をかまう理由なんか、分かっているつもりでいた。
たまに、いる。
自分の能力に自信があって。お節介タイプの人気者で。
たとえばそれが、教師にも同級生にも煙たがられている、扱いにくい嫌われ者であっても、自分になら上手に扱えるんだと思い込んでいる――葛西みたいな人間が。


仁科に何か言われるたびに、俺はそう思って、聞き流していた。
昔ほど浮いているわけではないにしても、クラスでの俺のポジションというのは、「よその人」と「かかわりあいになりたくない人」の中間くらいの位置にあるみたいで、男でも女でも、用もないのにわざわざ話しかけてくるやつはいない。
仁科くらいだ。
俺がそのことにだけは反応するせいか、仁科はよく永ちゃんのことを持ち出して、俺をからかったりした。
ちょっと前なら、葛西の時にしたように、100倍返しの嫌がらせで後悔させてやるところなのだが、俺は何もしなかった。
成長したんだと思いたいところだけど、人間そうそう変われるもんじゃない。


去年と違うのは、永ちゃんが、いつも隣りにいたことだ。
俺が何か言うと、「おまえなあ」と見慣れたいつもの呆れ顔をして、俺の頭をはたき、ひとりで先へ歩いて行ってしまう。

自分のことは何ひとつ打ち明けたがらない背中は、だけど、俺がついてくることを、少しも疑っていないみたいで。
たったそれだけのことで、俺は満たされて、安心して。
誰かを攻撃する必要なんか、なかったんだ。




夏休み中の校舎の中は、奇妙に静かで、まるで夢の中を歩いているみたいだ。

グラウンドや体育館では部活に来ている運動部の連中もいるし、どこかの教室では補習授業をやっているはずだったが、こうして廊下を歩いていると、ぺたぺたと自分の足音だけが耳に響く。
「……やっぱり来たじゃない」
誰もいない教室で、振り返りもせずに仁科麻紀が言ったとき。
俺はもしかしたら、こいつをすごく見くびっていたのではないかと、後悔した。


冷たい汗が、背中を流れ落ちる。
制服のシャツが、肌に張り付いてくる。
私服で校内をウロウロすると目立つので、とりあえず家にこっそり戻り、制服だけを持ち出して来たのだった。
こんな場面に出くわすと思っていなかったので、片方だけ足を教室に踏み入れた格好で、俺はその場に固まっていた。
こっちに背を向けて窓ぎわに立つ後姿は、仁科麻紀のはずだ。
仁科だと分かっていながら、まるで俺を待ち構えていたかのような言葉に、足がすくんだ。
「やっぱりって……、どういう意味だよ」
思いきりふてぶてしく言おうとしたのだが、声がうわずって、頼りない質問みたいになってしまう。
仁科は何も言わず、教室はシンと静まり返って、俺は一瞬、こわいことを想像してしまった。


仁科が振り返ったら、のっぺらぼうだったり。
仁科が振り返ったら、犬歯が長かったり。
仁科が振り返ったら、別人だったり。
……したら、どうしよう。


いきなり、仁科がブッと吹き出し、俺は驚いて半歩さがった。
ずっと背を向けていた仁科が、クスクス笑いながら、こっちを振り返る。
のっぺらぼうでない、いつもの。
顔が可愛くて、だけど生意気そうな、仁科麻紀だった。
「志村って……バッカねえ」
楽しそうに笑いながら、仁科が言う。
わけも分からずビクビクしていた分、俺はムッとした。
「なにがだよ。だいたい、なんでおまえ、学校に来てんだよ」
教室はうだるように暑かったが、仁科の制服姿は涼しげで、化粧の濃い中津川あたりと較べると、かなり爽やかに見える。
仁科はどこか得意げな顔をして、こう言った。
「向坂くんに呼び出されたの。相談があるって」
「うそつけ」
間髪いれずに、俺は言い返した。
あの永ちゃんが誰かに何か相談なんて、するわけがない。
ムッとする俺に、嘘じゃないけどねと、仁科はまた笑った。
「でも、私の言うこと、信じなかったみたい。せっかくアドバイスしてあげたのに、ダメだよねえ。志村よりよっぽど適性があるのに、頭がカタイって言うのかなあ、惜しいね」
「なに言ってんだ、おまえ」
仁科の目が、悪意があるような、面白がっているような、見たことのない不思議な色に光って、俺をとらえる。
「雑音みたいなのが、ずうっと聞こえるんだって。向坂くん、言ってなかった? 志村と一緒にいると、何か聞こえるって」



――テレビの音が


記憶が蘇って、俺は戸惑った。


――どこかでテレビの音みたいなのがしないか?


永ちゃんは、そう言っていなかったか。

「本人は鈍感で、聞こえてないのにね。ほら……でも」
「おい」
苛立って仁科のほうへ一歩踏み出した途端、見えない何かの線を踏み越えたみたいに、ピリッと静電気のようなものが走った。


「……この教室の中なら、聞こえるはず」

俺は何か、こいつに恨まれるようなことをしたのか?
仁科の声が遠く聞こえて。
空気がブルブルと震えだして、俺をのみこんでいった。


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