夏の檻(OVER番外編)

BACK | NEXT | INDEX

<12>

永ちゃんには俺と同じ「マサハル」という名の知り合いがいる。
いる、と思う。


本人が話してくれたことはないし、俺も聞いてみたことはないけど、たぶんいるのだと思う。
最近はそうでもないけど、俺は以前はよく永ちゃんちに泊めてもらった。
狭い部屋に並べて布団を敷いて、どうでもいい話をしながら寝るのが、楽しくて。
「寝た? なあ、もう寝ちゃった?」
寝つきの悪い俺が足でつつくと、
「いいかげん寝ろ……」
溜息まじりに永ちゃんが蹴り返してくる。いつものやりとりだ。


いつもと違っていたのは、その後だった。
そんなに大きな声じゃなかった。
小さく空気が震えるような――すすり泣きみたいなものが聞こえて、俺は目をあけた。
まだ夜明け前の暗闇の中。
ぼんやりしたまま体を起こすと、すぐ隣で、永ちゃんが泣いていた。
この時の衝撃は、ちょっと言葉では言い表わせない。
だって俺は、この同級生が泣いているところどころか、泣きそうなところだって、見たことがない。
いつだって、どんな大人より落ち着いていて、不愉快な出来事にも腹を立てずに、苦笑ひとつでやりすごしてしまう。
すぐに怒鳴りちらす俺の頭をはたいて、
「いいかげんにしろ」
と言う。


俺は、自分の親がそうそうまともな大人でないことは知っていたし、ふたりいる兄貴どもは俺以上に荒んでいてまともに口をきいたことさえなく、だからと言ってまわりの同年代の連中に気を許せるような環境でもなかったので、この年上の転校生が、いつだって、本当に、ものすごく特別だった。
俺に自分の都合を押し付けない、感情的になって俺を責めたりしない、俺を利用しようとしない、俺を馬鹿にしたりしない、いつだって誰よりも頼りになる……ひとりきりの人間だった。


それが、どうして。


俺が身動きもできずに固まっていると、永ちゃんはうなされるように何度か同じ名前を呼んで、寝返りをうち、また深い眠りへと落ちていった。


次の朝、永ちゃんはまったくのいつもどおりで、夢にうなされて泣いたことなど、覚えていないみたいだった。
むしろ黙りこんでいたのは俺のほうで、
「どうした? どっか悪いのか?」
いつもの半分も食べようとしない俺を、不思議そうに見る。




それからしばらくの間、俺はあの家へは寄りつかなかった。
学校にもあんまり顔を出さず、永ちゃんとはなるべく顔を合わせないようにして、自分の家へ帰りたくない時は、知り合いの(だいたいが年上の女の)部屋を転々とした。
そんなふうにして、二週間くらいが経って。
他人の家の窓から、くわえタバコで夜空を眺めている時だった。
からっぽな頭で月を見ているうちに、なにしてんだろう、と思った。


なにやってんだろ、俺。


こわかったのだ。
また永ちゃんが泣いたりしたら、どうしたらいいんだろう。
隣で眠っているやつがうなされていたら、普通は起こしてやったりするんじゃないか。
だけど俺は、指一本動かせなかった。
こわくて。
何て言ってやればいいのか、分からなくて。


帰りたい。
今だって分からないけど。
なんにも言ってやれないけど、でも、帰りたい。
あの家がいい。ここじゃなくて、永ちゃんのところがいい。
帰りたい。


半分に欠けた月を眺めながら、帰りたい帰りたいと考えていたら、なんだか息苦しくなってきて、俺はタバコの火を消した。
苦しいのは、吸い慣れない煙草の煙のせいか。
それともこれが、こういうのが、胸が痛むってことなのか。


夜が明けて、まだ薄暗いうちに永ちゃんの家へ行くと、ばあちゃんが庭先で植木に水をやっていた。
「あら」
俺に気が付くと、ばあちゃんは言った。
「永一なら、まだ寝てるけど」
「うん、知ってる」
俺はちょっと笑ってしまった。
普通なら「なんでこんな時間に」とか騒ぎそうなもんだが、さすがは永ちゃんのばあちゃんだ。
「上がって待ってたら?」
ばあちゃんのすすめに、俺は首を横に振った。
「いい。ちょっと聞きたいことがあっただけだから。あのさあ……」
俺は遠まわしな質問をするつもりだったのだが、あれこれ考えすぎた挙句に、こう言ってしまった。
「あのさ、永ちゃんに……兄ちゃんとか弟、いる?」
ばあちゃんの口から「はあ?」という、聞いたことの無い高さの声が飛び出した。
俺だって、いろいろな可能性を考えたのだ。
あの夜、永ちゃんはうなされるように「マサハル」と呼び続けていた。
俺の知るかぎり、永ちゃんが誰かを名前で呼んだりすることはない。愛称もない。クラス全員に「マッキー」呼ばわりされている松木のことだって、律儀に苗字で呼ぶようなやつなのだ。
だから、「マサハル」と呼ばれる俺でないマサハルは、かなり親しい――もしかしたら、兄弟だったりするんじゃないか?


「いないわよ」
ばあちゃんは、呆れたように否定して、それから考え込むように首を振り、
「……まあ、いたとしてもおかしくないけど」
永ちゃんの両親のどっちのほうを思い出したのか、苦々しい顔で吐き捨てた。
「そっか……」
当てがはずれて、俺はその場に立ちつくした。
ここで俺は「ものすごく悲しい一家の過去」とか、そういう話を聞かされる覚悟で尋ねたわけなのだが、どうもそういう話は無いらしい。
ばあちゃんは子供相手に手加減するような優しい人間ではないが、そのかわり子供相手だからといっていいかげんな嘘をついたりはしない。だから、生き別れの兄弟なんていないと言い切るのなら、それは本当なんだろう。
でも、だったらそいつは、何者なんだ。
すっきりしない気持で、俺は音をたてないように縁側から上がりこみ、永ちゃんが来る前は物置にしていたという、狭い部屋をこっそり開ける。
部屋の持ち主は、いつもと同じ様子で、死んでるみたいに静かに布団に横たわっている。
暗さに目が慣れてみると、すやすやと寝息をたてている穏やかな表情が見えてきた。
「永ちゃん」
足の先で、脇腹のあたりをつついてみる。
反応がないので、もう一回。
「なあ、永ちゃん」
「なんだよ……」
うう、とうなりながら、永ちゃんが半分くらい目を開ける。当たり前だが、眠そうだ。
まともに顔をつきあわせていない今なら、聞いてもいいような気がして、俺は枕元にひざをついて「なあ」と切り出した。
「何かさあ……泣くほど悲しいことってある?」
「悲しいこと……?」
眉間に皺が寄り、黙り込んでしまったので、また眠っちゃったのかと思っていたら、ふう、とため息が聞こえた。
「おまえの赤点がよっつもあることだな……。俺は教えるのが下手なんだから、おまえ、自分でどうにか……」
言葉のうしろのほうは、寝言のように曖昧になり、消えてしまった。
それからすぐに、穏やかな寝息が聞こえてきた。
そうだよなあ、と力を抜いて、俺は畳の上に座りこむ。
たとえ地球が滅びたって、永ちゃんが俺に泣き言なんか、聞かせるわけがない。
勝手にあわてて逃げ出した、俺が馬鹿なのだ。でも。
泣かれたらどうしようとは思っていたけど、なんにも打ち明けてもらえないっていうのは――

寂しいもんだな、と思った。
そんなことを思ったのは、あれが初めてだ。

なんでもかんでもすぐに答えを欲しがる俺が、曖昧な疑問を抱え込んだのも。
言いたくないことなら、無理に聞きださなくていいやなんて、思ってしまったのも。



BACK | NEXT | INDEX
Copyright (c) 2006 mana All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-