夏の檻(OVER番外編)

BACK | NEXT | INDEX

<09>

庭に、誰かが立っている。
家の中をうかがっている。


眠っているはずの俺に、何故かはっきりと感じ取れる、この気配。
俺は悲鳴をあげた。


――俺を連れに来たんだ。
出て行ったりしたから。
勝手に逃げ出したから。


「……志村」
もがきつづける俺の手を、誰かが掴んでいた。
「誰も来ない。ここには入れない」
落ち着いたその声が、呪文のように繰り返す。
「ここには入れない」
「ウソだ」
俺は反射的に叫んでいた。
「嘘じゃない。ここには入れない」
いいから、眠れ――
暗闇から伸びて来た指先が、俺の瞼をそっと閉ざした。
そんなのはウソだと思いながら、まるで魔法にかかったみたいに、全身から力が抜けていく。

そんなのはウソだ。俺は連れて行かれるんだ。
だって、知らないじゃないか。
俺がどんなにイヤな奴なのか、永ちゃんは、本当には知らないんだから。




場面がぐるりと変わって、あの夜になった。
あの夜。
俺はエイコさんのマンションのベランダから、冷やかな目で、下の道路を見下ろしていた。
白い改造車から飛び出した中津川は、サンダルの片方が脱げたのか、よろけながら街中へと消えて行った。
残された車はすぐにエンジンをかけ、夜の街へ走り出す。
中津川の消えた方向へ、タイヤを軋ませ、追いかけるように。
そこまで確認してから、今のささやかな一幕は見なかったことにして、俺は背を向けた。
知ったことか。
中津川がどんなバカと付き合おうと、どんな揉め事に巻き込まれようと、俺の知ったことか。
「ただいまー。ごめんねえ、遅くなって」
その時、買い物に出ていたエイコさんが戻って来た。
俺は煙を吐き出して、何もなかったような顔で、「おかえり」とエイコさんに笑いかけたのだ。



「どこにも行かないでしょう……?」
弱々しい声ですがりついてくる、母さんの腕。
ああ、ここはあの場面だ。
母さんが気配を消して、俺の後ろに立っていた、家でのあの場面だ。
青白い顔をして、口元を震わせて、母さんがこちらへ手を伸ばす。
「まあくんは、どこにも行かないわよね……?」
こわい、と思った。
たぶん、性的な意味は無い、接触だったと思う。
だけど俺は、抱きつかれた途端、鳥肌をたてて母さんを突き飛ばしていた。
触るな、か。
気持悪いんだよ、か。
どっちかの言葉を投げつけたような気がするけれど、動転していたせいか、思い出せない。
母さんは壁に体をぶつけて、壊れた人形みたいに、ずるずると床に滑り落ちた。
怒鳴られたり、殴られたりするほうが、まだマシだ。
そんなふうに寄りかかられるほうが、耐えられないんだ。
母さんをそのまま置き去りにして、俺はその場から、走って逃げ出した。
逃げ出したんだ。



「……あっつい……」
うめきながら目を覚ますと、暑いのも当たり前で、時計はすでに11時をまわっていた。
起きてみると、そこは机と本棚があるだけの、刑務所なみに質素な部屋だった。
見慣れた、永ちゃんの部屋だ。
布団はすでに畳まれていて、部屋の持ち主はここにはいない。
最近まったく眠れなかった俺が、昼まで眠りこけるなんて、どういうわけだろう。
たくさん夢をみたような、何か忘れていることがあるような気もしたけれど、久しぶりにまともに睡眠をとったせいか、アタマがすっきりしていて、気分は爽やかだった。
ふらふらと廊下へ出て行った俺に、庭先にいたばあちゃんが気がついた。
「ああ、おはよう」
ばあちゃんは、帽子にサングラスに手袋という、まるでキャディーのような怪しい格好をして、庭に水をまいているところだった。
この暑いのに、どういうわけか、ポリエステル素材っぽい、ガソリンスタンドの店員みたいなツナギまで着込んでいる。
「ばあちゃん……、どうしたの?」
「水まきよ」
何をしているのか聞いたわけではないのだが、ホースを手にしたばあちゃんは、胸を張って答えた。
永ちゃんもだけど、血筋なんだろうか。無口だとかいうレベルではなく、自分を他人に説明するという機能ってものが、ここんちの人間には、最初からついていないように思う。
「俺、いま目が覚めたんだけど……」
「ああ。起きるまで寝かせておくようにって言われていたから」
ばあちゃんは、すたすたと水道のところへ歩いて行って、蛇口を閉めた。
「……永ちゃんが? 永ちゃん、どこ?」
怪しいキャディー仕様のばあちゃんからは、意外な返事が返ってきた。
「永一なら、学校へ行ったけど」
「がっこう? なんで?」
「補習でしょ」
「補習……?」
そんなわけがあるか。
うちの学校で言う「補習授業」は赤点の罰ゲームみたいなもんだ。
まともな受験対策は、みんな塾の夏期講習でするのが普通だし、あんなに成績の良い永ちゃんが、補習のメンバーのわけがない。


俺の頭に、むくむくと疑いが湧いてきた。
ヘンだ。
永ちゃんの行動が、なんだかヘンだ。
「なんか……永ちゃんに、なんか変わったことなかった?」
「何かって?」
「誰か来たりとか、電話とか、なんでも」
ばあちゃんはサングラスを外して、俺を見た。
「聞いてどうするの」
おかしな服装をしているのだが、その仕草だけ見ていると、なんだかヘンな威厳のようなものがある。
ばあちゃんの鋭い目つきと突き放すような口調には慣れているので、俺はひるまずに食い下がった。
「どうって、気になるんだよ。教えてよ」
ばあちゃんはふう、と溜息をついた。
「電話が二本かかってきて、ひとつはあなたのお母さん。あとは先生みたいな様子だったけど、詳しい内容までは聞こえなかったわね。自分からも、どこかに電話していたみたいだったけど」
母さんが、永ちゃんに?
「自分から電話って、誰に?」
俺のしつこさに、ばあちゃんはあきれたような顔をした。
「そこまで知るわけないでしょ。ああ、でも、そういえば名前が――」
思い出すように視線を浮かせて、ばあちゃんは言った。
「ニイナ? じゃなくてニシナ? そう呼んでいたかも」

ニシナ……仁科?
あの仁科麻紀のことか?
永ちゃんが、どうして仁科と連絡をとったりするんだ?


苛立ちが、胸の奥を焼いた。
どんな時にも動じない、大人びた横顔を思い出す。
俺には、いつだって何にも言わないくせに。


――永ちゃんは、いったい何をしているんだ。

BACK | NEXT | INDEX
Copyright (c) 2006 mana All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-