夏の檻(OVER番外編)

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<08>

昼近い時間になって、家にこっそり入ろうとしたら、白い毛のかたまりに飛びつかれた。
リリーだ。
「あら、お帰りなさい」
「……どうも」
俺だって、それくらいは言えるのだ。


勝手口から出てきたのは、母さんがよくリリーの散歩を頼んでいる業者の人だ。
俺がかがんでアタマをぐりぐり撫でてやると、興奮したリリーが俺のまわりをぐるぐるまわった。
「お散歩に行くわよー」
エイコさんと同じくらいの年齢だろうか、髪をひとつに束ねた化粧気のないその人が、リードをかざして見せると、リリーはすぐに飛びついて行く。
「……こんな時間に、散歩?」
俺は思わず空を見上げた。
太陽がギラギラ照りつける真夏に、犬を連れ歩くような時間帯じゃない。
「あ、ええ」
その人は、いつも頷く程度の俺が口をきいたことに驚いたのか、それとも俺の目つきが悪かったからか、緊張した表情でこっちを見た。
「奥さまから電話をいただいて……具合が悪くて外に出してあげられないから、少しだけ遊ばせるようにって、ご依頼なんです」
もちろん水は持って行きます、と生真面目に、腰につけたホルダーに入れた、500ミリリットルのペットボトルを指して見せる。
なるほど、と思った。
また母さんが、帰らない息子を心配して、「心労のあまり寝込んで」いるらしい。



シャワーを使って、着替えをした。
また出て行くための準備をしながら、俺はずっとデタラメな鼻歌をうたっていた。
洗面台の鏡には、眉間にシワを寄せた、ゆううつそうな顔をしたガキがうつっているけれど、それは見えない。俺ではない。
「……まあくん?」
近いところで声がして、俺の肩がビクッと震えた。
振り返ると、戸口に寄りかかるようにして、青白い顔色をした母さんが立っている。
足音をさせないように、歩いてきたのか――?
いつもならカッとするところなのに、母さんの表情のない顔を見て、冷水をかけられたようにゾッとした。
「もう、学校は夏休みなんでしょう……?」
聞き取れないくらいの、細い声だった。
「あ、ああ……うん」
俺はうわずった声で答える。
終業式のあと、永ちゃんの家でメシを食って、エイコさんの家に泊まってしまったので、俺が母さんと顔を合わせるのは2日ぶりだ。成績表なんかはどこかにあるはずだが、当然、見せていない。
「それなら、……なくていいのよね」
「えっ?」
聞き取れなくて、俺は聞き返した。
母さんは、弱々しい動きで、こちらへ手を伸ばした。
「どこへも、行かなくて……いいのよね?」



「永ちゃん! 永ちゃん!」
玄関のブザーを押しても誰も出てこないので、俺は庭へ回って、縁側のあるガラス戸を叩く。
どの窓もぴたりと閉ざされて、人がいる気配はない。
諦めの悪い俺は、それでも戸を叩きつづけた。
まるで、あの時の夢みたいだ。
助けてくれ、
助けてくれ、
助けて。
「志村のそういうのはさ、よくないと思うんだよね」
そう言ったのは、飯田ではなくて、その前の二年の時の担任だ。
「きみのそういう態度がさ……向坂の世界まで狭くしているんじゃないかな?」
にっこりと、さわやかに笑って、そんなことを言う。
俺は歴代担任教師の中でも、あいつが一番嫌いだった。
三十になったばかりの社会科の教師で、奥さん子供の写真を机に飾り、同僚からも生徒からも好かれている、温和な男。
その正しさで、ひとが隠している心の暗がりを「ここがよくないよ」と平気で照らしてみせる、自信満々な男。
あいつの言うとおりだ。
そんなことは分かっているんだ。
だから、うんと陰険な手をつかって、困らせてやった。
そんなのは簡単だ。普通に暮らしていて、中傷されたり陥れられたりする心配なんかしたこともない人間なんか、俺から見たら、隙だらけなんだから――


俺は、まだガラス戸を叩きつづけていた。
手が痛い。
痛い。


「……割れるだろ」
そのとき、静かな声が降ってきた。
永ちゃんが、ムッとしたような不機嫌そうな顔で、俺の手を押さえている。
「留守だったんじゃ……」
ずっと呼んでいたくせに、まさか本人が現れると思わなかった俺は、ぼんやり呟いた。
「ちょっと図書館で調べ物してた。祖母さんも出かけてるみたいだな」
さりげない仕草で俺の手を下ろすと、この炎天下でも涼しげな顔をして、永ちゃんが言う。
「玄関開けるから、そこで待ってろ」
背を向けた足元を見ると、スニーカーが泥だらけだった。
いったい、どこで何をしてたんだ。
図書館が、そんなにぬかるんでいるわけないじゃないか。
「永ちゃん、葛西って先生、覚えてる?」
声を張り上げて俺が聞くと、返事は意外なくらい、あっさり返って来た。
「おまえの去年の担任だろ」
「……なんで覚えてんの?」
「なんだよ。聞いといてその顔は」
俺は余程びっくりした顔をしていたのだろう。
だって、今のクラスのメンバーさえあやふやな永ちゃんが、俺の去年の担任なんか、どうして覚えているわけがあるんだ?
「……もしかして、何か言われた?」
「べつに」
否定するけど、こういうことについて、永ちゃんが本当のことを言うわけがない。
たぶん、言われていたんだろう。俺が言われていたようなことを、葛西は自分流の善意とやらで、永ちゃんにも話していたに違いない。
「葛西が学校かわったのって、俺のせいなんだ」
「……おまえの? 病気で、入院したって話だったけど……」
永ちゃんは思い出すような表情で、かすかに眉を寄せる。
俺は笑った。意識しなくても、たぶんイヤな笑い方が出来ているだろうと思う。
「俺がやった。入院は……ストレスだろうな。最後は、相当まいってたみたいだから」
ガラス戸を叩きつづけた指の関節が痛んで、俺は自分の手をなでた。


俺はさっき、この手で母さんを突き飛ばした。
葛西がやってもいない援交の証拠をでっちあげて、職場にいられないようにした手でもある。
「痛いのか?」
うつむいて、自分の靴のつま先を見ていたら、いつのまにか永ちゃんが戻って来て、俺の手を掴み上げていた。
「あんなふうに叩いたら、痛いに決まってるだろうが……ちょっとは大人になれ」
「うん」
「そんなに後悔するんなら、もうするな」
「うん」
俺は素直に頷いた。
永ちゃんが言うのは、いつも、あたりまえみたいに普通のことだ。
俺の手をつかんで先を歩く永ちゃんには、俺は出会ったころの頼りないチビのまま、手のかかる子分みたいに見えているんだろう。
この人は、優しい人だ。
あんなふうに何でも独学っぽいのも、他人との距離が遠いのも、たぶん、ずっと長いこと一人きりでいたせいなのではないかと思う。


俺がこんなことを今になって打ち明けたりするのは、後悔しているからじゃない。
永ちゃんを試してみたかっただけだ。
俺を責めるのか、軽蔑するのか、それとも聞かなかったふりをするのか、試してみただけだ。


俺は自分にぞっとする。
こんなふうに、いつだって俺を叱り、いつだって俺を赦し、いつだって俺を助けてくれる、この人さえ。
俺はいつか憎み始めるんじゃないかと、ぞっとする。

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