夏の檻(OVER番外編)

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<07>

向かいのタカハタさんから、キュウリをもらって。
家庭菜園で育てたものなんだって。
ちょっと大きくて実がやわらかいから、漬けてみたんだけど。
「……そう」
ばあちゃんの返事は短かった。


年季の入った卓袱台ちゃぶだいを三人で囲んでの、晩飯だ。
永ちゃんは、ばあちゃんと会話をしようといつも頑張っているのだが、たいてい、この一言でブロックされて終わってしまう。
ここんちの食卓は――まあ、食事時に限ったことじゃないんだが――たいてい、こんなふうにシーンと静まりかえっている。
あまりに間がもたないので、俺は「キュウリがいかに体にいいか」という、先週テレビで見た浅い知識を披露してみたが、やっぱり座はどうにも盛り上がらなかった。
しかし、ばあちゃんの名誉のために言っておくなら、別にこれは悪意があっての態度ではない。
フラリとやってきて当たり前みたいに一緒に食事をする俺にも、ばあちゃんはイヤな顔をしたことはない。
元は高校の英語の先生だという、このばあちゃんは、顔立ちも性格も、永ちゃんとよく似ていると思う。不器用なとこなんかが、特に。



「永ちゃんて、やること丁寧だよなー」
洗った食器を拭くように命じられ、俺は永ちゃんと流しの前に並んで立っていた。
ここんちの台所は古いけれど、いつもピカピカに磨き上げられていて、清潔だ。
「皿の洗いかたなんて、みんな一緒だろ?」
永ちゃんはスポンジを動かしながら、そう言うのだが。
性格的には似ているように思う二人なのに、永ちゃんとばあちゃんとでは、同じものをつくるにしても、やり方がぜんぜん違う。
どちらのメシの準備も手伝ったことがあるけど、ばあちゃんは万事において、ざっくり適当だ。
例えば、「ブリ大根」をつくるとしよう。
ばあちゃんは、材料をざくざく切って、ボンボン鍋に放りこんで、最後にちょっとアクをすくうだけで、味付けをしてもオソロシイことに、味見はしない。

対して永ちゃんはどうかというと、魚を煮る前に熱湯をかけて臭みをとり、更に水洗いして血をとる丁寧さで、大根からもアクが出るからと、切った後でアク抜きをする。
包丁の使い方も上手で、飾りにつかう針ショウガの切り方というのを、俺は永ちゃんに教え込まれた。
煮物なんて煮ちまえば同じだろうと思っていたが、下準備での違いは出来上がりにもきっちり反映していて、中学三年男子である永ちゃんのつくるアラ煮のほうが、ばあちゃんのつくるものより、遙かに美味い。
片付けにしたって、ばあちゃんはどういうわけか、皿の裏のほうをきちんと洗わないのを、俺は知っている。
永ちゃん自身は、ばあちゃんのつくる大雑把な料理に何の不満もないらしく、いつもキレイに完食しているのだが……。


「永ちゃんのお母さんてさー、料理上手?」
ばあちゃんに習ったわけではないだろうと思って聞いたのだが、永ちゃんは首を横に振った。
「ぜんぜん。というより……料理はしないな」
何を思い出したのか、少しだけ笑う。
それは優しい笑い方で、俺がクソ親父のことを話す時には、こんな顔はしないと思う。
永ちゃんは、きっと、お母さんのことが好きなんだろう。
「へえー。じゃ、誰に教えてもらったわけ?」
俺の質問に永ちゃんは平然と答えたのだが、聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、とっさに反応が出来なかった。
永ちゃんは、なんでもなさそうに、「本で読んだ」と言った。




俺はボンヤリと煙の行き先を眺めていた。
マンションの5階である、この狭いベランダは大通りに面していて、こうして外に出ていると、車の音が結構うるさい。
俺の喫煙は、ただのポーズだ。
なんとなく口にくわえていると落ち着くのだが、「そのうち吸わずにいられなくなっちゃうわよー」とエイコさんは笑う。
何年も禁煙に挑戦し続けているというエイコさんは、つまり成功してないんだろう。ごく普通のOLで、年齢は28。足がキレイで、はっきりとした顔立ちの美人だが、彼氏はいない。
どうして「いない」と言い切れるのかと言えば、一ヶ月ほど前、彼氏にフラれてヤケクソになったエイコさんが、初めて入った店でぐでんぐでんに酔っぱらって、勢いでお持ち帰りした男が俺だからだ。
俺のことは初対面から高校生だと思いこんでいるらしく、「こんな若い子連れ込んで、犯罪だねー」と笑うので、本当に犯罪になりそうな実際の年齢のことは、言わないままだ。
部屋の主であるエイコさんが「コンビニに行って来るね」と出かけて、もう15分以上経っている。
……遅いな。
ヒマな俺は、ベランダの暗がりでエイコさんの帰りを待っていた。



「まよいが、みたいねえ。それって」
俺の話を聞いたエイコさんは、髪をかきあげて、笑った。
「まよいが……?」
「遠野物語って知らな……いか。そういうお話があるの。旅の人が森の中で迷い込んじゃう、まぼろしの家」
ガラスのテーブルに、水滴で「マヨヒガ」という文字を書く。
「それって、怪談?」
「えー、怪談とは違うかなあ。マヨヒガから何かを持ち帰ると、幸せになるの」
「持ち帰るー? ドロボウだろ、それ」
「あはは。まあ、読んでみてよ」



雨宿りしたはずの建物が見つからないのだという、バカみたいな俺の話を面白がって、エイコさんはそんなことを教えてくれた。
何かを持ち帰ると、幸せになる――
「幸せになる」って、なんだろうな。
そんなふうに思う俺は、きっと不幸ではないんだろう。
家に帰れば、綺麗に掃除された部屋があって、うるさいクソ親父がいて、なんだかんだと世話をやきたがる母さんがいて、遊んでほしいリリーがキャンキャン吠えながら、足元にまとわりつく。



永ちゃんといるようになって、俺はずいぶんマシな人間になったような気がしていた。
やたらと他人につっかかることもなくなったし、親父との揉め事も減っていたし、学校にだって毎日きちんと顔を出す。
どれも当たり前のことみたいだが、以前の俺は、それさえ出来ていなかった。
あまりにもうるさくて態度が悪いんで、私立の小学校を半年でクビになったことがあるくらいだ。
永ちゃんと会ってから、俺は少しだけ落ち着いていた。
それなのに、最近のこのイライラは、なんだろう。
今までと何も変わっていないはずなのに、イヤな夢を見ては飛び起きて、夜もろくに眠れない。



「おまえが来ると、いつもよりたくさん話すんだ」
皿を片付けながら、永ちゃんは言った。
俺には信じられないことだけど、ばあちゃんは、俺がいる時はいつもより話してくれるらしい。
「げ。あれで?」
驚いて、そう言ってしまった。
あれで「たくさん話す」なら、普段はどんななんだ。
「……俺がなあ、おまえくらい面白いことが言えれば、いいんだろうけど」
永ちゃんはそう言って、ちょっとだけ笑う。
俺は、なんだか悲しくなってしまった。
永ちゃんはちっとも悪くないじゃないか。ばあちゃんが聞いてくれないのが悪いんじゃないか。
ふだん使っていない脳みそをふりしぼって、俺はせいいっぱい考えるけど。
こんな時に、何て言ったらいいのか、ちっとも分からない。
隣にいる誰かの気持を、ちょっとだけでも軽くしてやりたい、そんなふうに思ったことが、俺には無かったんじゃないだろうか。
いつだってイライライして。
周りに機嫌をとってもらうのは、俺のほうで。
「永ちゃんは……そんなにつまんなくはねえよ」
ふてくされたような顔をして、こんなセリフを言うのがせいぜいだ。
なんだか顔が上げられなかったので、そのとき永ちゃんがどんな顔をしたのかは、知らないままだ。




ベランダから下の通りをボンヤリ眺めていた俺の意識に、何かが引っかかった。
あの白いランエボ――また来たのか。
俺の注意を引いたのは、マンションのエントランスから少し離れたところにハザードを点滅させながら停車した、一台の車だった。
上から見るかぎり、車のデザインなんてものは、どれもたいして変わらない。
改造されているらしい独特のエンジン音の低さが、先週もこのあたりで見かけたのと同じ車ではないかと、俺の記憶を呼び起こしたのだ。
やたらと車高を低くした、濃いスモークの貼られた車。
クソ親父が恨みを買っているせいで、実は誘拐されかけたことさえある俺が、ふだんから警戒しているのは、もっと目立たない「ふつうの」車だ。
だから、先週ここへ来たときに俺がその車に目をとめたのは、「いまどき古くさいヤンキー趣味だなあ」と思ったからで、たいした意味はなかったのだが――



エイコさんが「この辺りで、クスリを売っているヘンな車がいるらしいの。気をつけてね」と言っていたのを思い出す。
繁華街に近いこの辺りは、駅に近くて便利なんだが、治安が悪いのだそうだ。
上から見ていると、通りをぶらぶら歩いてきた、見るからにアタマの悪そうな服装の若い男が、例の車の横で立ち止まった。車の中にアタマをつっこむようにして、中の人間と会話してから、また通りの向こうへ消えて行く。
ふうん、と思いながら眺めていた。
エイコさんは気にしているみたいだけど、売人ていうのは押し売りとは違うので、通りを歩いていて売りつけられたりすることはない。だいたい、そんなものをこんなところで売り買いしなくたって、遊び仲間から遊び仲間へ、こっそり流したほうが安全なのだ。
いまどきこんなところで商売しているなんて、車の改造シュミも古くさいけど、アタマの中身も古くさい、阿呆なやつがいるらしい。



ところが、ずっとそうやって見ていると、車を寄せて接触してくる奴らが結構いて、俺は意外な繁盛ぶりに驚いていた。
もっと驚いたのは、その白い改造車の助手席のドアがいきなり開いて、女が飛び出してきたことだ。
大声で「バカヤロー」と叫んで、走り出した、若い女。
きたないガラガラ声と、たいして細くもないくせに人目に晒している足に、見覚えがあった。
「あれは……ナントカ川?」
名前のほうは、忘れていた。


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