夏の檻(OVER番外編)

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<06>

「うわああああ」
俺の悲鳴の長さのわりには、その斜面は2メートルほど下で終わっていた。
問題は、立ち上がろうとして力を入れた膝の下の、ぐにゃりとした感触だ。
「わあっ」
俺の下敷きにされた永ちゃんが、死体のようにぐったりと伸びていた。
「永ちゃん、永ちゃん! しっかり!」
「……だろ」
「えっ? なに?」
「……しっかり、するのは……おまえだろって言ったんだ」
苦しそうに顔を歪めて、息を吐き出しながら、切れ切れに言う。


「ああ、よかったー」
いつもの憎まれ口にホッとしていると「とりあえず、どけ。俺の上から」と低い声で叱られた。
永ちゃんの腕を引っ張って起こしてやると、意外なくらい軽くて、俺はちょっと複雑な気持になる。
これは……そうだ、いつだったか古いドラマで見たことのある、泣かせ場面だ。
家出していた、しょうもない不良息子が、何年もたってから家に戻ってくる。
昔は鬼のように恐いと思っていた母親を背負ってみたら、びっくりするくらい軽かったとか、そういう……なんか違うような気もするけど、そういう種類のショックだった。

助けてもらった初対面の時には、永ちゃんは、一つどころか、うんと年上に見えたものだ。
今でもある意味では同年代とは思えないとこもあるけど、それは別として……引っ張り上げた体は、俺が思っていたよりも、ずっと細くて、軽かった。

「ああ、泥だらけだ。おまえなあ、手を出してんだから、手につかまれよ。足じゃなくて」
俺の物思いなど知らない永ちゃんが、自分の背中についた泥を見て、顔をしかめる。
「足って?」
聞き間違いかと思って、俺は聞き返した。
「だから、俺の足首をつかんで……」
「つかんでねえよ?」
なんのことだ。
永ちゃんの足どころか、俺は何にもつかまれずに、あっけなくズルッと滑り落ちたのだ。
俺と永ちゃんの間に、沈黙が落ちる。
ざわざわと、風のないはずのこの林の、頭上の樹々がざわめいている。
時間が止まったような不安な数秒のあとで、永ちゃんはなんと、こう言った。
「……ま、いいか」
いいって、何が。
乱暴な結論に俺が口をあけていると、もう今の出来事には興味を失くしたらしい永ちゃんが、かがんで草をかきわけている。
どうしたんだろうと見守っていると、そのまましばらく進んでから、立ち上がった。


「ここ、何か建物があったみたいだな……基礎が少し残ってる」
「へえ、こんなとこに?」
永ちゃんの言葉に、俺はぐるっと辺りを見回した。
言われてみれば、この四方には樹も生えていないし、何か建っていたことがあるのかもしれない。
「けっこう規模が大きいけど、こんな林の奥に住居っていうのもな……家畜でも飼っていたのかな」
考えこむように言いながら、永ちゃんはふと思いついたように俺を見た。
「おまえが入った建物って、どういうのだった?」
「どういうって……暗くて、よく見えなくて……」
「二階建て?」
「いや、二階とかはたぶん……なかったような……」
いきなり問い詰められて、俺は困ってしまった。
暗かった。月明かりがぼんやり照らすだけの、蒸し暑い夜だった。
雨にふられて、何か小さな小屋みたいなのに走りこんで――というあたりしか、覚えていない。
そのあとに眠り込んでしまったせいか、前後の記憶が曖昧なのだ。
どういう小屋だったのか、説明しろって言われても……。
俺が困って黙りこんでいると、永ちゃんがふいに口を開いた。
「言うなって言われたんだけど」
「うん」
「仁科さんがさ」
「仁科がっ?」
いきなり凄い勢いで振り向いた俺に、永ちゃんは戸惑ったようだった。
「ああ、仁科さんが、おまえのことで話があるって……でも、何のことだか分からなくて――」
「あいつ、あの、ええと……何だって?」
仁科の言葉を思い出して、俺はうろたえて、知らないうちに自分のシャツの胸のあたりをぎゅっと握っていた。
――向坂くんの言うことなら、何でも聞くくせに。
まさかあいつ……俺のいないとこで、永ちゃんにヘンなこと言ったんじゃないだろうな。


「もう、今はない場所だから」
「は?」
永ちゃんは、表情の消えた顔で、足元の草むらを見つめた。
「探しているのは、今はもうないはずの場所だから、近づいたらダメだって――おまえ、どういう意味だか、分かるか?」


ざあっと木立が風に揺れ、風にのって、かすかに雨の匂いがした。
夕立が、近づいている。

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