夏の檻(OVER番外編)

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<04>

梅雨明け前の、蒸し暑いその夜。
俺はここを通りかかって、雨に降られて。
雨宿りしているうちに、眠り込んでしまったんだった――


気象庁が梅雨明け宣言をしたはずが、今日も霧みたいな雨が降っている。
俺は傘をさしたまま、学校の裏手にある雑木林の入り口に立っていた。
あの夜、親父ともめて、殴られて殴り返して、家を飛び出したことは覚えている。
ここを通りかかったことも覚えている。
でも、雨宿りって?
そんな場所、あったっけ?
俺は首をひねった。
昼でも薄暗いこの林は、外灯もなくて、夜になると真っ暗だ。
痴漢にあう心配のない俺でも、わざわざ通ったりしない場所だ。
雨の降った夜に、どうして俺はこんなぬかるんだ林を通り抜けたりしたんだろう?
ほんの先週のことが思い出せず、不安になる。
気が付くと、脇の下にじっとりとイヤな汗をかいていた。


この林には、実は、ちょっとした思い出がある。
中学に入ったころのことだ。
その頃まだ非力なチビだった俺に、生意気だとか目つきが気に入らないとか、そんなどうでもいいような理由をつけてからんでくる阿呆な奴らがたくさんいて、そういう揉め事には、いつのまにかすっかり慣れっこになってしまっていた。
ところが、阿呆の上にも阿呆がいるものだ。
「おまえの親父なんかに、オレはビビらないぜ!」
と(実際にヤツはそう言って胸を張っていた)、ただ仲間に見栄を張りたいだけのために俺をつけまわす頭のおかしな上級生がひとりいて、そいつが他の学校の阿呆仲間まで引き連れてきて、俺を集団でリンチしたのだ。
それが学校の裏手の、この場所だった。
10人か、20人か。
周りを見張っているだけの奴も入れたら、もっといたのかもしれない。



そんな阿呆の群れに、頭を殴られて倒れ、腹を蹴られた。
朦朧とした頭で、「死ぬかもしれない」と思った。
こいつらは、まともにケンカをしたこともない、ホンモノの阿呆なのだ。
体のどこが急所なのか知らない、自分が殴られたこともない、手加減なんか出来るわけもない、そういうガキの集まりなのだ。
そうと分かって、俺は心底――こわくなった。
本当に死ぬかもしれない。こんなことで。こんな所で。



ところが、俺は死ななかった。
誰も通りかかることのない、学校の裏の林。
そこへいきなり現れて、阿呆たちがあわてて逃げ出した後で俺を拾い上げたのは、なんと口をきいたこともない同級生だった。
それが永ちゃんだ。
あの日、あの瞬間から、永ちゃんは俺の恩人になった。



「何やってんだ?」
ガラス戸が開いて、永ちゃんが顔を出した。
「うーん。ちょっと、考えごと」
傘をさした俺が、うつむいて言うと、永ちゃんはあきれた顔をした。
「……ひとんちの庭でか?」
そりゃそうだけど、俺にも俺の事情がある。
現場検証をする刑事のような気分で、俺は永ちゃんちの小さい庭に立っていた。
形の良い梅の木が一本あって、晴れた日には陽の当たる縁側があって、ここは俺の好きな場所だ。
去年くらいまでは、親父に殴られて行くところがなくなると、よくここへ来て、永ちゃんを呼んだ。
「えいー」
と小声で呼んでガラス戸を叩くと、永ちゃんが顔を出して「おまえ、もうちょっと大人になれ」とかなんとか説教をしながら、手当てをしてくれる。


ぜんぜんまったく事情は知らないけど、永ちゃんは、ばあちゃんと二人暮しだ。
知り合った当時、俺はそんな永ちゃんに、ずっと家族の悪口を聞かせていた。
あんまり認めたくないけど、そうとしか言いようがないんで仕方がないけど、つまり俺は……永ちゃんに甘えていたんだと思う。
だけど、永ちゃんは言わなかった。
もし逆の立場だったら、俺だったら絶対に言ったはずの「おまえは贅沢なんだよ」みたいなことは、一度だって言わなかった。
だから、俺はいつだって、永ちゃんにはかなわないのだ。



「なあ、永ちゃんさあ」
「たまには玄関から入れよ、開けるから」
そう言って引っ込んでしまおうとする永ちゃんを、俺は呼び止めた。
「あのさ、俺、先週……ここに来たり――しなかったよな?」
永ちゃんはきょとんとした顔で振り返り、「なに言ってんだ?」と言った。
「おまえ、先週も庭から入って来ただろ。夜中の三時くらいに、泥だらけで。わけわかんないこと言って」


縁側についた、泥だらけの手。
あれは夢じゃなかったのか? 
背筋がぞっとした。
おぼえてない。ここへ来た記憶はない。

「俺、なんて言ってた……?」
おそるおそる尋ねる俺に、永ちゃんはあっさりと、こう言った。
「寝言みたいなこと言ってたぞ。助けてくれとか、あれが追いかけてくるとか。ヘンな夢でも見たのか?」


――助けてくれ
――あれに、あれに追いつかれてしまう


俺の中にある記憶の、どこまでが本当で、どこからが夢なんだ?


確かだと思っていた現実が、いきなり頼りなく感じられて、めまいがした。
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