夏の檻(OVER番外編)

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<03>


俺は永ちゃんの家の庭に駆け込んで、何か叫んでいる。
手も足も泥だらけだ。
永ちゃんが、ばあちゃんと二人で暮らす、この小さな家には縁側があって、そこへ手をつくと、てのひらの形に泥がこびりついた。
早く中へ入らないと、あれに、あれに追いつかれてしまう。
俺は窓を叩いて叫ぶ。
誰も出て来ないので、泣きたくなる。
助けてくれ、助けてくれ、助けて。


「――永!」


叫んで飛び起きた俺を覗き込んでいたのは、同じクラスの仁科麻紀だった。
「び、びっくりした。おどかさないでよ」
いつも小生意気な仁科のやつが、うろたえている。
「なんだ……」
汗が流れ、心臓がまだバクバクと音をたてていた。
「痛いんだけど」と文句を言われて、やっと仁科の手首を掴んでいたことに気がつき、舌打ちしてから放してやった。なんでこいつがここにいるんだ。
俺がうなされて目を覚ましたのは、いつもの場所、屋上の手前の踊り場だった。
昼間でも陽が射さない暗い場所なので、とっさに今がいつなのか、思い出せなくなる。
どうして、いつから……ここで寝ていたんだっけ。
「なんか用かよ」
落ち着かない気持を隠して、吐き捨てるように言う俺に、仁科はムッとしたようだった。
「なんでそうやって、いちいち睨むわけ?」
「うるせえな」
俺は汗をぬぐった。
なんだろう。
すごく嫌な夢をみていた気がする。ものすごく、嫌なカンジの。
「……なんで志村って、他の人の言うことは聞かないの?」
言われた意味が分からずに、俺は首をまわして、仁科を見た。
「向坂くんが言うことなら何でも聞くくせして、なんで他の人のことはゴミみたいに見るの? ねえ、なんでよ?」
俺は黙って仁科を眺めた。
なんで今こいつに、そんなこと言われなきゃならないんだ?
「ちょっと待ってよ、どうして逃げるの?」
背を向けて階段を降り始めると、後ろから仁科の声が追いかけてきた。

どうして逃げるのか?
そんなふうに聞かれるのには、もう飽き飽きしているからだ。
なんで、どうしてって質問の形をしてはいるけど、要するにそれは俺を責める言葉で。
聞いてくる奴らは、俺の本当の理由なんて、べつに聞きたいわけじゃない。



俺は自分の手のひらを眺めた。
仁科の手首を掴んだあの時、俺は永ちゃんの名前を叫んだ。助けてくれと。
あの夢。
追われるあの夢には、もっとその前に――何かあったような気がする。



「……まあくん、どこに行ってたの?」
玄関をくぐると、犬と母さんが飛び出してきた。
ウチの玄関には、石材屋だった祖父さんの自慢のでっかい石と、骨董屋に売りつけられたヘンな金箔の屏風と、クソ親父の気に入りの虎の剥製があって、初めて来た客なんかは、その悪趣味な取り合わせをどうやって褒めたらいいのか、真剣に悩んでいる。
「ご飯は?」
「食べた」
「学校は?」
「サボった」
「昨夜はどこにいたの?」
「友達んち」
立ち止まらずに、順番のバラバラな質問に答えながら、長い廊下をズカズカ歩く。
真っ白なふさふさの毛をした、日本スピッツのリリー(名前をつけたのは俺じゃない)が、興奮して足元にまとわりついたけど、それも無視した。
まだ早い、午後のこの時間帯なら、家に戻ってもクソ親父と顔を合わせずに済む。
着替えをして、その間に携帯電話も充電して、机の奥に隠しておいた金を持ち出す。
カード類は履歴が残って面倒だから、使わない。
出掛けに、これ見よがしに隅っこでシクシク泣いている母さんが見えたけど、見なかったことにしておいた。
外に出ると、ムッとするような蒸し暑い空気が、俺を包む。
いきなり最悪な気分になった。


クソ親父はクソみたいなやつだけど、俺はそれ以下だ。
ポケットには金があって、なんだって買えるのに、俺は何にもなれない。どこにも行けない。
出て行ったフリをして、金がなくなったら、またここへ戻ってくるだけだ。
あの夜だって――


そうか、と思い出した。
あの夢は、前にも見たことがある。
クソ親父と揉めた夜、自分がどこで眠ったのか、俺はやっと思い出した。


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