夏の檻(OVER番外編)

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<02>

うちのクソ親父は、地元の議員だ。



見た目がギラギラしていて下品なら、中身はそれ以上にずっと下品な、どうしようもないおっさんなのだが、部分的には顔も似ていたりして、悲しいことに俺とは確実に血がつながっている。



家には昔から知らない人間が大勢出入りして、わけのわからない団体から脅迫状はしょっちゅう来るし、選挙前には当たり前みたいに家族に関する中傷ビラがまかれていたりする、そんな環境だ。
年の離れた兄貴がふたりいるのだが、要領のいいクソ兄貴たちは、留学だなんだと理由をつけて、この家からさっさと出て行ってしまい、出来の悪い俺だけが、今も昔もクソ親父に殴られ続けているわけだった。
俺が何か反抗的なことを言うと
「まあくんは(俺の名前は正晴なのだ)どうしてそんな風に、ひねくれたことを言うの?」
と母さんがシクシク泣くのだが、どうしてもなにも、そんな家庭環境でのびのび素直に育つ子供がいたら、会ってみたい。


あのクソ親父の息子というだけで、顔も知らないやつに唾を吐かれ、
あのクソ親父の息子というだけで、ガキの俺なんかにへつらう大人がいて、
俺は中学に入るころには、たいして生きてもいない人生というやつに、心の底からウンザリしていた。
どいつもこいつも、クソなのだ。


「永ちゃん?」
「んー、ちょっと待て。すぐ終わるから」
便所から教室へ戻ると、永ちゃんが、難しい顔をして小さな針を握っていた。
シャツを着たままで、腹のあたりのボタンを付けているのが、おっかない。
「俺、やろうか?」
「なんで」
「なんでって……」
危なっかしいからに決まってる。
睨まれたので黙って見ていたら、二回くらい、間違って自分の腹を針で刺していた。
痛いと口に出して言わなければ、俺が気が付かないと思っているのが、この同級生のヘンなとこだ。
ようやく糸を切り終えた時に、ホッと息を吐いたのは、本人ではなく俺のほうだった。
「これ、ありがとう」
永ちゃんが手にした小さなケースを返しに行って、丁寧に礼を言った相手は、あの仁科麻紀だった。
「えー、ホントに自分で付けちゃったの? 向坂くんて器用だねえ」
仁科のやつはにっこり笑い、その後で意味ありげに俺のほうをチラッと見た。
――なんだコイツ。
俺の不愉快メーターは瞬間的にマックスとなり、立ち上がりかけたのだが。
「おい、帰るぞ……どうかしたのか?」
戻ってきた永ちゃんに声をかけられて、我に返った。
不思議そうに俺をのぞきこむ顔を見ていたら、自分が何を怒っていたのか、すぐに分からなくなってしまった。
「永ちゃん……」
「ん?」
「俺って、馬鹿かなあ」
俺の呟きに、永ちゃんは三秒くらい静止してから
「……まあ、頭が良いだけがエライってわけじゃない、気にすんな」
と真顔で言ったのだが、あれは慰めか何かなんだろうか。


地元では、悪名高いうちのクソ親父のことを、知らない人間なんかはいない。
小学校でもそうだったし、中学でもそうだ。
知らないのは、転校してきた永ちゃんくらいだ。
ずっと知らないでいればいいのに、と思う。


四年でクソ親父は任期切れとなるので、つぎの選挙があるのは二年後。選挙用のポスターがズラッと貼られ、選挙カーが名前を連呼して、本人が街頭演説に立っていたら、いくら永ちゃんが噂話にうとくても、どこかで耳にするはずだ。
それとも、そのころは俺なんかとは縁が切れていて、「へえ」と思うくらいなんだろうか。
下から数えたほうが早い俺の成績では、永ちゃんが行くような高校へ行けるわけがない。
昨日、ひさしぶりにクソ親父の鉄拳をくらったのは、「志望校はどうするんだ」と聞かれ、「そんなもんねえよ」と答えたせいだった。
高校へ行かないと言ったわけじゃない。行きたい学校なんか、聞かれても無いと言っただけだ。
そもそも俺の言うことなんか最後まで聞くつもりもないクソ親父に殴られ、頭にきて、実は初めて殴り返してしまったのだった。


「……ないか?」
考えごとをしていた俺は、永ちゃんの言葉をうっかり聞き逃した。
学校からの帰り道、何もない林の横を通っている時だった。
「え? なに?」
慌てて聞き返したら、永ちゃんは額に手を当て、周囲をぐるりと見回して、
「耳鳴りかな。こんなとこ、何にもないもんな」
と独り言のように呟いた。
耳鳴り?
「なんか聞こえんの?」
深く考えずに尋ねた俺に、永ちゃんは静かに首を横に振り「耳鼻科に行かないとな」と、本気とも冗談とも分からない無表情さで、そう言った。

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