夏の檻(OVER番外編)

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<01>

本人が何でだか嫌がるので、あんまりその話をしたことはないけど、俺は実のところ二回くらい、永ちゃんに命を救われている。
「……救ってない」
「えー、助けてくれたじゃんよ!」
いつも言い合いになるのが、中学三年の夏のことだ。
あの夏は、最悪だった。




「なんだ志村、その顔は」
腫れあがった俺の顔を見て、担任教師の飯田が、ぎょっとする。
だいたい、ナメられやすいこのタイプの気の小さい男は、教師に向いていないと思う。
特に、中学なんかの教師は。
いつものようにざわついていた教室が、俺が入った途端に、いきなりシーンと静まりかえった。
まったく、気に入らない。
「家庭の事情でーす」
ヤケクソになって俺は言い、注目の中、わざとのんびり歩いて席につく。
「親父さんか?」
後ろから静かな声がかかって、首筋がちょっと縮んだ。
ウチの親父なんか、べつに恐くない。力はバカみたいに強いし、声もバカみたいにでかいし、すぐに手を出してくるけど、それだけだ。
どっちかと言えば、後ろの席にいる、こっちの同級生のほうが……俺にはコワイ。
「ちょっと……でも俺、今回は悪くねえし」
前を向いたまま、ぼそぼそ言訳をする俺に、
「遅刻するな」
と一言だけ。
うん、と真面目に頷くと、俺は机を中をゴソゴソとあさって、教科書を取り出した。
視線を感じて隣に目をやると、仁科麻紀が口元に手をあてて、笑いをこらえている。
ちょっとくらい可愛い顔してるからって、ムカつく女だ。
何か言ってやろうかと口を開いて、いや永ちゃんに怒られるなと思いつき、とりあえず睨むだけで我慢する。
大きく開いた窓から風が入って、少しだけ教室の空気がよくなった気がして、息を吐き出した。
早く夏休みになればいい、と思った。
遊びたいとか、勉強したくないとかじゃなくて――まあ、それもあるけど。
この部屋に大勢で押し込められていると、息がつまる。




向坂永一という、この後ろの席の同級生は、ホントはいっこ年上なんだそうだ。
そのせいなのか何なのか、一年の途中で転入してきた当時は、スゴイ噂が流れていた。
前の学校で傷害事件を起こして、10人を病院送りにしたとか。
体に刺し傷がいっぱいあるとか。
本人が堂々としていて、まったく気にしていない風なのが、タダモノではないカンジだったけど、今なら分かる。
永ちゃんは、気にしていなかったのではなく、気が付いていなかったんじゃないだろうか。




「……志村?」
午後の授業をさぼって、誰も来ない屋上の手前の踊り場で昼寝をしていると、永ちゃんが現れた。
うわ叱られると飛び起きたら、ビニール袋に入った固い物を渡された。
「ほら、これ」
「なに?」
「先生に借りた。保冷剤だけど、無いよりいいだろ」
俺の顔をまじまじと見て、「朝より腫れてきてるぞ」と困ったような――心配そうな、なのかもしれないけど、表情にバリエーションがないんで、そのへんがよく分からない――顔をして言う。
ビニール袋の中には、言葉のとおり、小さな保冷剤が五個くらい入っていた。
礼を言うのがなんだか照れくさかったから、ひんやり冷たいそれを両頬にあてて「なんかかっこわるいなー」と文句を言ってみると、かるく小突かれた。
「永ちゃん、授業は?」
「自習だからいい」
そう言って隣に座り込み、あくびをする。
実は自習でもなんでもなく、数学の授業が普通にあったのだと、確かめる前から知っていたけど、知らないことにしておいた。
転入してきたころの噂とはまったく反対に、ウソみたいに成績がよくて、授業態度も真面目で、争いごとの嫌いな優等生のはずなのに、永ちゃんの体には、本当に刃物の傷がある。
「事故だから」としか本人は言わないけど、事故って言ったって、まさか道端でナイフを持った人間にうっかりぶつかったわけはないだろうし、あやしい話だ。


そして永ちゃんは、時々こんなふうに、すごく平然とウソをつく。
つくけど、別にそれは自分のためとかじゃなくて――まあ、つまり、だから身長をすっかり追い越してからも、俺は永ちゃんにだけは逆らえなくて、なんだかいつも心配で気が気じゃなくて、後ろにくっついて歩いてしまうんだけど。
それを他人に分かるように説明するのは、難しい。


「……何か音がしないか?」
首を傾けて、永ちゃんが呟いた。
「音? どれ?」
耳を澄ませてみたけど、授業中の学校はしんと静かで、グラウンドの音もここまでは届かない。
「しないけど」
「テレビの音みたいなのがしたような……気のせいかな。聞こえなくなった」
永ちゃんが首をひねる。
「テレビー? どっかの授業でつかってんじゃないの」
保冷剤を頬にあてて、俺はそう言った。
「そういうカンジじゃなかったけどな……」
永ちゃんは、しばらく不思議そうな顔で、あたりを見回していた。


「テレビの音」と表現した、永ちゃんの言葉の意味が分かったのは、それから少し経ってからだった。
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