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●  まるで愛のような --- 16  ●

ボンダイ・ビーチへは、電車とバスを乗り継いで、ほんの30分ほど。

夕暮れ時だというのに、サーフボードを抱えた人や、観光客らしき人々、地元の散歩の人で溢れ、浜辺はとても賑やかだった。
「お、まだ砂が熱い」
裸足になった夏生が、まるで大変な発見でもしたように、嬉しそうに笑う。

ここへ来るまでの道中、夏生はずっと上機嫌で、通り沿いの店をのぞいたりしては、いつもよりたくさん話し、よく笑った。
そんな屈託のない夏生を今まで見たことがなくて、私はフワフワした頼りない夢の中にいるような、落ち着かない気分でいた。
何かが変だと、体のどこか奥のほうで、ずっと警報が鳴り続けている。

私が砂の上に座り込んでいると、波打ち際まで行った夏生が、意外なほど高い波を受け、髪まで濡れて戻って来た。
「まいった。歩いてりゃ乾くかな、これ」
濡れた前髪をひっぱって、苦笑する。
「小さいタオルならあるけど。あの、夏生」
「うん?」
私が差し出したタオルで顔を拭きながら、夏生は穏やかにこちらを見た。
「夏生は――隆明さんのこと、怒ってないの?」
何か話をしなくてはと思いつきで口にしてみただけの、たいして意味のない問いかけだった。
ところが夏生が横を向いて考え込んでしまい、予想もしなかった長い沈黙が落ちて、私は焦った。
「ごめん。変なこと聞いて」
「いや、そうじゃなくてさ……なんて言うか、そうだな」
夏生は少し迷ってから、片手を上げて見せた。
「おまえ、あいつの左手の指が半分くらい動かないの、気が付いてたか?」
「え?」
私は驚いて、慌てて自分の記憶をさぐってみた。
隆明さんの指? そんな不自然さは、ちっとも感じなかった。普通にお皿やグラスを手渡してくれていたし、食事の時だって、おかしいところは何も――確かにピアノは弾かなかったけれど、でも。
「エマが……」
思い当たることが、ひとつだけあった。
そういえば、エマが変な弾き方をしていた。
主旋律を弾くはずの右手は、ときどき鍵盤を押さえる程度で、ずっと左手の伴奏だけの、おかしな練習を。
何の曲を弾いてるのか分からなくて気になっていた、あれはまさか――
「エマが……伴奏の練習をしてたのは、そのせいなの? 隆明さんの左手が動かないから――」
私の言葉に、夏生は小さく頷いた。
「正確には、左手の中指と薬指だな。日常生活にはそれほど支障がないと思う。何年か前に、機械に巻き込んで……詳しいことは聞かなかったけど、まあこんな状態だったから、大きな病院には行けなかったんじゃないか」
夏生はそう言って、自分の左手の指を眺めた。

普段なら、きっと居間のあのピアノで、エマが左手を引き受けて、隆明さんと演奏していたのだろう。
隆明さんが私たちに気を遣わせないために隠していたことを、おそらくほんのわずかな指先の動きだけで、夏生は気がついたのだ。

「隆明のしたことに、腹が立たないわけじゃないけどな。あいつの今の家族が、そうやって左手のかわりをしてくれるような人たちなら、仕方がないと思ったんだ。隆明がここにいたがっても。俺と……蓉子おばさんは、それと逆のことばかり、ずっとあいつにしてきたわけだから」
夏生は力なく笑い、浜辺から去ろうとしている楽しげな家族連れに目をやった。
「それは――そんなの、私だって同じだし」
隆明さんにつきまとって構ってもらいたがっていたのは、私だって一緒だ。
夏生はこちらを振り返って、困ったような、泣き笑いのような表情を見せた。
「おまえは、ちがうよ。俺とおばさんは、ずっとあいつに頼りきって、ぶらさがってきた。俺の親のことや、隆明の死んだ父親のことや、おまえには言わないでいたことが、本当はたくさん、たくさんあって――」
夏生の声が上ずって、自分でそれに気がついたらしく、苛立ったように前髪をかきあげる。
「そんな話は、いいんだ。そうじゃなくて、だから俺は」
「夏生」
「だから、おまえには、感謝してる。一緒にいてくれて、ありがたいと思ってた。おまえといると、自分がちょっとマシな人間みたいな気がして、楽しかった。ここへ来られたのも、おまえのおかげだと思ってる。だから……だから貴子、ありがとう」

時間が止まったような一瞬だった。
ぎこちなく差し出された夏生の手と、こわばった表情を見て、ようやく私にも理解が訪れた。
――そうか。そうなんだ。
最後だから付き合えと言ったのは、そういうことだったのか。
夏生は意味のないことは言わない人間だ。
この人は、これで本当の本当に、私の前からいなくなろうとしているのだ。
握手を交わして、「元気で」と言って。
「な……」
呼びかけようとして、言葉に詰まる。
何を言えばいいのだろう。ほんのわずかな嘘さえも、見逃さないような、この人に。
何を言えば、どんな言葉なら、伝わるのだろう。

私は夏生を救えない。
その心にある傷も、これから出会う痛みも、その孤独さも、なにひとつ代われない。
だって世界中をさがしたって、そんなことが出来る人はいないのだ。
それがこんなに苦しいのだと――
どうしたら、この人に、届くのか。

「……住所、教えてよ」
うつむいた私の言葉に、夏生が苦笑する気配がした。
「年賀状でもくれるのか?」
痛いところを突かれた気がした。そういえば、ここへ来るまでは、そう思っていたのだった。
自分の鈍さがつくづく嫌になる。年賀状を送り合うような間柄になって、それでいいと、本気で思っていたなんて。
そんなことだから、こうして今、夏生を失おうとしているのだ。
「年賀状……」
どうしても顔を上げられないまま、私は言葉を押し出した。
「年賀状も出すし、遊びに行く。蓉子先生の家じゃなくて、夏生のところへ。違う話をしよう。隆明さんのことじゃなくて、昔のことじゃなくて、今度は夏生と、違う話がしたい」
早口で言い切っておきながら、夏生の無反応さに弱気になり
「……んだけど、ダメかな」
と付け足してしまった。
長すぎる沈黙のあとで、夏生の低い声が落ちてきた。

「……おまえ、自分が何言ってるか、分かってるのか?」
「どういう意味よ」
顔を上げると、何故か呆れたような顔をして、夏生がそこに立っている。
「どういうって……、ああもう」
苛々したように、夏生はガリガリと頭をかいた。
「俺がせっかく――せっかく、おまえのことは、諦めてやろうと思ってたのに。なんなんだよ。待てよ。本当か? 本当にいいのか? 本気で言ってんのか? 一時の感情でそういうこと言って、あとで違うとか言われても、俺だって……」
混乱した様子の夏生が、おそるおそる手を伸ばしてきて、私の頬に触れた。
「本当は何でもいいんだ。お前が俺をどう思ってても、一緒にいてくれたら、何でもいい」
かすれたその声に、私は驚いた。
「夏生」
「もう一回言って」
「なに?」
「名前、呼んでくれ」
夏生の言葉に、私は戸惑った。いつも呼んできたのに、いまさらそんなことを言われると。
「……夏生」
「うん」
何がそんなに嬉しいのか、夏生は頷いて、微笑んだ。
顔が近づいて来たかと思うと、こつんと額をぶつけられた。
「あれ、訂正しないと」
「訂正?」
わけが分からず、至近距離の夏生の顔を見る。
夏生は目を閉じて、微笑んで、

「世の中は、頑張っていれば――いつか報われることもある」

そんなことを言った。



その日は珍しく東京に雪が降り、私と相川さんは例によって残業中だった。
「ああ、お腹空いた。元気の出るもの食べたいなあ。塚田くんのおごりで……」
疲れ果てて理性の消えかけた相川さんは、なにやらひどいことを言っている。
朝から立て続けに急な会議が入ったために、こちらの仕事が終わらなくなってしまったのだ。
相川さんは申し訳なさそうにしているけれど、正直言って、私はこの忙しさにホッとしていた。日本へ戻って来て二ヶ月は経つというのに、私はいまだに夏生と会うのに慣れないのだ。
当の夏生はいうと、私が言うのもおかしな話だけれど、かつて見たことがないほど幸せそうだ。
気になるのはその活動で、先日ひさしぶりに社内ですれちがった塚田さんに、
「相川が行きたがってたオペラのチケットとれたんだよー。ナツキくんにお礼言っといて!」
と言われた。
いつの間に、そんな仲になったのか。

隆明さんの件は、夏生が苦労しているようだけれど、今のところ進展はない。生存を証明し、戸籍を復活させ、パスポートを発行できるようになるまでには、かなりの時間がかかりそうだ。
そのかわり蓉子先生のほうから頻繁に会いに行っているようで、エマから写真つきのメールが届く。
「で、辻ちゃん、昔の彼に会って、どうだった?」
相川さんが、何の前置きもなく、ふいにそう聞いてきた。
「どうって……そうですね」
私は曖昧に笑った。
隆明さんのような人に道でばったり出会ったら、好きになってしまうかもしれない。
恋なんか、何度でも、いつでも、落ちてしまうものなのだから。


だけど、この胸の奥にある、あの痛みは。
夏生の代わりになれないと嘆く、誰にも説明しようのない、この痛みは。

これが私のなかにある、いちばん愛に近いものじゃないかと、そう思う。


(了)

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