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●  まるで愛のような --- 13  ●

それは不思議な午後になった。

母屋の居間へ入ると、夏生とジェニファーが和やかに話をしていて、「よう、遅かったな」と拍子抜けするくらい穏やかに、私たちを迎え入れた。
そんな夏生の様子に戸惑っていると、隆明さんにジェニファーを紹介された。

夏生の向かいの椅子から立ち上がったジェニファーは、エマとよく似た顔立ちの、それでいてずっと繊細そうな雰囲気の女性だった。私の手をとった指は、緊張のためか、とても冷たかった。
「来年には、子供が生まれるんだ」
隆明さんが彼女の背に手を添えて、静かに言う。
ゆったりした服を着ているけれど、彼女のお腹が大きいことは、私にも一目で分かった。
ああ、そうか。だから隆明さんは――
「じゃ、お姉さんになるんだね」
痛む心を隠して笑顔をつくり、私の後ろに隠れるようにして立っていたエマを肘でつついた。
ここへ来る前に、仲直りするようにと約束しておいたのだ。
エマは分かってるわよと言いたげにつんと顎をあげてから、一歩踏み出して、母親に何事か囁いた。
ジェニファーは黙って娘を抱きしめ、その白い頬を寄せて、少しだけ涙をみせる。
そんな二人に寄り添う隆明さんの表情は優しげで、それを見てしまうと、やっぱり私の胸の奥深くが、ひどく痛んだ。
分かっていたことだけれど、隆明さんは日本へ帰るためではなく、生まれてくる新しい命と今の家族のために、捨てたはずの自分の過去を取り戻そうとしたのだった。

「おい」
いきなり至近距離で夏生の声がして、私は「ひっ」と飛びのいた。
飛びのいたつもりが、すぐ真後ろにいた夏生にぶつかってしまい、そのまま肘をつかまれる。
「なんだその反応は。おい、なんだったら、この家族は別れさせてやってもいいぞ」
「はあ?」
とんでもない発言に、私の声が裏返った。
顔の見えない夏生は、耳元でフンと笑ったようだった。
「別にそれくらい、簡単だ。お前がそう言うんなら、どうにでもして絶対に隆明を連れて帰ってやる。言っとくけど、これはお前を試しているわけじゃないからな」
「な……」
何を言ってるのと笑いとばして体を離そうとしたけれど、その手には意外なほどの力が込められていて、振りほどくことが出来なかった。
だから、と夏生は続けた。

「だから、本当の本当に、望んでいることを言ってみろ。なんでもしてやる」

きっぱりと言い切った夏生の声が耳を打ち、私はそのまま動けなくなった。
目の前に見えているはずの隆明さんたちが、急にかすんで遠く感じた。

ふいに、まだ財布の中に入っているはずの、塚田さん経由の夏生の名刺のことを思い出す。
もしも隆明さんの身に、何も起こらなかったら。
隆明さんは結婚して家庭を持ち、私と夏生は自然と川島家から遠ざかり、いまごろ互いにまったく接点のない人生をおくっていたはずだ。一緒に過ごした子供時代を、なつかしく思い出すことはあったとしても。
こんなにも長い間、私と夏生をつなぎ続けてしまったのは、「隆明さんの死」だった。
そしてそれはもう、無くなってしまったのだ。

なんでもしてやる、なんてことを平然と言う、この人を失くすのは、どんな痛みだろう。
どんな気持ちになるのだろう。あたりまえのように私を大切な身内のように扱う、この人がいなくなってしまったら。

想像もつかない。どうしよう。

「タカコ? ちょっと何してるのナツキ、はなしなさいよ」
鋭いエマの声に、夏生はぎょっとしたようだった。
「何って、え、うわ。どうした? なんで泣いてんだ? 大丈夫か?」
慌てた夏生に、素手で乱暴に顔をごしごし拭かれ、エマがそれを叱っているのが遠く聞こえた。
涙がだらだら勝手に流れて、止まらなくなってしまったのだ。


それからは、まるで時間がとまったような、不思議な午後になった。
普段は人前で弾きたがらない夏生がスタンレー家の小さなグランドピアノの前に座り、エマがリクエストをして、隆明さんが料理をふるまった。ジェニファーは楽しげに笑い、私にも日本語まじりの英語で話しかけ、学生のころの隆明さんの話をたくさん聞きたがった。

夏生だけは私が泣いたことを気にしていて、弾きながら何度も窺うようにこちらを見ていた。
それが分かっていても、どうしてなのか夏生の顔をまともに見ることが出来なくて、私はずっと気付かないふりをしつづけた。

「うーん、じゃあ、思い出の曲を」
リクエストが途絶えた時だった。
夏生がそう言って弾き始めたのは、「牧人ひつじを」という、愛らしい賛美歌だった。
これは隆明さんが旅立つ前に「クリスマスはクリスマスらしい曲をやろう」と提案した賛美歌集の中の一曲だ。
練習しておけと言って旅立ったことを覚えていたらしく、隆明さんは感慨深い顔で聴き入っていたけれど、私にだけはその「思い出」の意味が分かっていた。
これは、なんと隆明さんのお葬式――いや、葬式は出来なかったので友人たちによって執り行われた「隆明くんを偲ぶ会」の会場で、私と夏生が弾いた曲なのだ。
友人たちが泣き崩れ、私も辛くて何度も手をとめてしまった、なんとも悲しい会だった。

まったく、悪趣味なことを。
思わず夏生を睨みつけると、ようやく目が合ったことにホッとしたように、ニヤリと笑われた。
やられた、と思った。

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