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●  まるで愛のような --- 12  ●

母親の蓉子先生ほどではないにしても、私の中には隆明さんの膨大なデータがあるに違いない。
人を好きになるというのは、すごいことだ。
輪郭しか見えなくても、ちょっとした仕草だけで、それがその人だと分かるのだから。

「エマ?」
どうやら暗い室内に目が慣れないらしく、彼はもう一歩踏み出して、こちらへそう呼びかけた。
懐かしい、懐かしい、その声で。

自分からここへ会いに来たというのに、足がふるえた。
隆明さんだ。
もう二度と会えないと思っていた、隆明さんだ。

エマが私の背後に隠れ、服をきゅっとつかんだ。
その小さな手がかすかにふるえているのを感じた途端、私の足のふるえが止まった。

――私はここへ、小さな女の子のように泣きに来たわけじゃない。

息を深く吸って、励ますように軽くエマの手を叩く。本当に励ましたいのは、泣き出してしまいそうな自分だったのだけれど。
覚悟を決めて、私は口をひらいた。
はじめましてと言うつもりはなかった。最初の一言で、隆明さん本人に確かめたいことがあった。
私が知っているのは、なんだか辻褄が合うような合わないような、人づてに聞いた話ばかり。
記憶があろうがなかろうが、この8年間の空白は、絶対におかしい。
隆明さんは、本当は記憶を失ってなんかいないのかもしれない。
日本へ、あの家へ、戻りたくなかっただけなのかもしれない。
生きていたと聞いてから、心の隅で、ずっとそれを疑っていた。
「隆明さん――ひさしぶり」
しっかり発声したつもりが、声がかすれた。
今ここに夏生がいなくてよかった。こんなふうにひきつった顔の私を見たら、きっと怒るにちがいない。だから来なくていいと言ったのに、と。
「ああ」
隆明さんが次の言葉を発するまで、無限の時が流れたような気がした。
「ああ、貴子もいるんだ……。ひさしぶりだね――遠くまで、ようこそ」
強い風が吹いて、戸をすべて押し開き、外の光が私たちの足元まで差し込んだ。
隆明さんの顔が、ようやく見えた。



「畠中さんに嘘をつかせたのは、俺なんだ」
廃屋の外の木陰に立ち、隆明さんはそう言った。
木に寄りかかって座る私に、すっかり泣きやんだエマが何故かぴったりとくっついて、じっと耳をかたむけている。
畠中さんというのは、隆明さんが生きていたことを伝えに来たという、蓉子先生の知人のことだ。
8年ぶりに会った隆明さんは、今年で34歳になるはずが、外見的にはそれほど変わっていなかった。もともとが落ち着いた人だったし、よく海に出るので、いつもこんな風に日焼けをしていた。
「俺の方から手紙を出して、畠中さんに相談したんだ。畠中さんは死んだ親父と仲がよくて、おふくろとは交流の無い人だったから、かえって打ち明けやすかった。畠中さんのところの洋二くんが、たまたまこちらに来ていたから、ああいう筋書きにしてもらった」
「筋書きって――」
記憶喪失だなんて、馬鹿な嘘を。
非難するように声を上げかけて、私は口をつぐんだ。話はまだ途中だ。
隆明さんは静かに頷いた。
「そう。おふくろに本当のことを言うべきかどうか、悩んだ。今も迷ってる。俺はすっきりするかもしれないが、これ以上おふくろを傷つける意味があるんだろうか。ただ息子が帰ってきたと、喜んでもらったほうがいいんじゃないか」
「隆明さん……」
この人は、こんな暗い目をする人だっただろうか。
こんなふうに静かに語る人だっただろうか。
いつも元気がよくて、頼もしくて、私と夏生にまとわりつかれて笑っていた、あの人なんだろうか。
「救助された時には、本当に記憶が混乱していたんだ」
そのせいで、ジェ二ファー――私が挨拶しそこねた、エマのお母さんに、警察に知らせないでくれと頼んでしまったのだと、隆明さんは言った。衰弱状態から回復して、ようやく何が起こったのか把握した頃、捜索が打ち切られたのだと。
「その時にだって、名乗り出られたはずだった。だけどもう戻りたくなかった。自分が死んだことになってるのを知って、ホッとしたんだ。ジェニファーが農場を買いとって内陸のこの町へ移り住むというのを聞いて、頼み込んで一緒についてきた。あの海沿いの町にいたら、いずれ見つかるんじゃないかと思って、こわかったんだ」
だから、と隆明さんは続けた。
「誤解なんだ。ジェニファーのせいじゃない。俺がずっと逃げ続けていただけなんだ。エマにもそれを言えなかった」
それを聞いて、エマが不服そうに何か言い返した。
早口の英語を私が聞き取りそこねたことに気付くと、たどたどしく説明した。
「ケイは半分しか本当のことを言ってない。それでもママはケイの家族に知らせるべきだった。ママのしたことはフェアではないと、私は思う」
「うん」
その年頃の少女らしい潔癖さに、胸が痛むような思いで、私は微笑んだ。
エマの言っていることは正しい。正しいけれど、人はいつも正しい道を選ぶわけじゃない。
エマのお母さんも、隆明さんを失いたくなかったんだろう。きっと。
隆明さん、と私は呼びかけた。
「そんなに……帰りたくなかったの?」
楽しかった子供時代を思い出しながら、私は聞いた。
あのすべてが、隆明さんにとっては逃げ出したい毎日だったのか。
隆明さんはゆっくり顔をあげて、私を見た。
「あの家で、いつも息がつまるような気がしてた。どこか遠くに行きたいと思ってた。お前たちが遊びに来る時だけ、家の中の空気が変わるんだ。二人ともケンカばっかりして、元気がよくて……楽しかった」
今度こそ、泣いてしまいたいと思った。
だけど泣く必要はない。こんな遠いところへ来てまで聞きたかったのは、たぶん、この一言だったのだから。


「隆明さん……ねえ、顔、どうかしたの?」
じっと見つめていた隆明さんの顔の輪郭が、どうも先ほどまでとは違うような気がして、私は聞いた。
すると隆明さんは我に返ったように、顎から頬をなでた。
「え? ああ、腫れてきちゃったか。夏生に殴られたから」
「……夏生が、どうして?」
予想もしない返事に、私は驚いた。
神経質で難しい性格だけれど、夏生はカッとして暴力をふるうような人間じゃない。
「ああ、それが」
決まり悪そうに、隆明さんは顎をなでた。
「もともと記憶喪失を装うつもりなんてなかったし、お前達ふたりが来るって聞いて、きちんと打ち明けて、それから謝ろうと思ってた。なのにアイツの顔を見たら、説明する前に、つい言っちゃって……」
「何を言ったの?」
事情が分からず、私は眉をひそめた。たった一言で夏生をそうまで怒らせるなんて、どういうことだろう。
隆明さんは困ったように、こう言った。
「いや、それが『でっかくなったなー!!』って言って、駆け寄っちゃったんだよ。そしたら、『ふざけんな』って、ガツーンと殴られた」

「タカコ、タカコ、どうしたの? だいじょうぶ?」
地面に突っ伏して、ひくひく痙攣する私を見て、エマが慌てた。
再会シーンを想像して、なんだか発作のようになってしまったのだ――笑いすぎて。


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