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● まるで愛のような --- 11 ●

なるなよと言われていたのに、迷子になった。

たいして樹木もないような開けた風景なので、迷ったりするわけがないと思っていたら、煉瓦造りの大きな建物の横に出てしまい、女の子と同時に母屋のある方向も見失ってしまっていた。
太陽が強烈に照りつけてくる。
乾燥した埃っぽい空気は、日本の夏ほど不快ではないにしても、長旅をしてきた身にはこたえた。
汗をぬぐって、立ち止まる。
何かが聞こえた。

受験を理由にレッスンをやめてから、指はさっぱり動かなくなってしまったけれど、幼児期からの音楽教育の成果か、耳だけはわりと良いほうだ。
今でも三和音は聴き取れる。
こもったような、はっきりしない音ではあったけれど、ポロポロと耳に届くそれは、ピアノの音色だった。
どこかで聴いたような音の並びだと思いながら、不思議と何の曲なのかは分からなかった。それが何故なのかも分からなかった。
その時には。


音をたどりながら、煉瓦造りの建物をぐるりと回りこむと、壊れかけたウッドデッキのあるテラスを見つけた。
ほとんどガラスの残っていない戸をそっと引いて、室内へ足を踏み入れる。
足裏でガラスがパリ、と乾いた音をたてた。

「あなたはタカコ? それともナツキなの?」

落ち着いたアルトの声に、問いかけられた。
外の日光にやられた目で暗い室内を見まわすと、ようやく目が慣れてきて、荒れ果てた部屋の隅にアップライトのピアノが置かれているのが分かった。その前に小さな影が座っていて、こちらを睨んでいることも。
「何がおかしいの?」
ピアノを弾き続けながら、苛立ったように女の子が言った。
全体の発音は完璧なのに、「タカコ」というところだけが、やや「タココ」と聞き取れて、私の口元が笑ってしまったのが、見えたようだ。
「日本語、上手ね」
表情をひきしめて、私は言った。
発音や抑揚だけでなく、使い方のニュアンスがとても日本語的だ。
心から感心して出た言葉だったのだけれど、どうやら彼女は気に入らなかったらしい。
「学校に日本語コースがあるの。知らないの? 前も日本人に同じこと言われたけど」
つんとした生意気さが可愛らしくて、私がくすりと笑ってしまうと「どうして笑うの」と、また怒られた。
「ごめんなさい。私はタカコのほう。私たちが来ることを知っていたの?」
出来るだけはっきり発声すると、女の子は小首をかしげて、内容を頭におさめてから、頷いた。
「ケイが私たちに話してくれたから。私はエマ。はじめましてタカコ」
エマ・スタンレーは立ち上がって、大人びた仕草で右手を差し出した。
11歳のこの少女の身長は、私の肩より少し高いくらい。手足もすらりと長かった。男の子のような格好をしているけれど、あと何年もしないうちに、雰囲気のある凄い美少女になるにちがいない。

「はじめまして。ケイというのは、隆明さんのこと?」
私の手をとったエマの表情が、いきなり苦々しく歪むのが見えた。
「そう。ママがケイと呼んでいたの。でもわたし、今では知っている。ケイはカワシマというんでしょう? そのKだったのね。ママはずっと、知っていて黙っていたの。ずっと嘘をついて、ケイをこの家に閉じ込めていた」
エマの目がぎゅっと閉じられ、いきなり大粒の涙がこぼれおちた。
「ママは卑怯者なの。大嫌い」
そのあとは嗚咽になってしまい、私はただその肩をなでているしかなかった。
エマの言ったようなことは、だいたい予想がついていた。
ただ、そのことを理由に、この母子がもめているとは思わなかったのだ。

隆明さんの事故は当時かなり話題になっていたし、身元不明の人間を救助して届けも出さないことなど、どう考えてもありえない。
隆明さんを助けた人物は、すべてを知っていたはずだ。
でも、回復したひとりの人間を8年間も閉じ込めておくことなど、できるだろうか。ここは未開の地ではなく、日本人の多いオーストラリアだ。
隆明さん本人にその意志があれば、記憶を失くしていたとしても、自分の過去をさぐるくらいのことは出来たはずだ。

隆明さんの母である蓉子先生にはもちろん、夏生にも言えなかったけれど、私が一番気になっていたのは、実はそのことだった。
隆明さんは、もしかしたら、自分の意志で帰ってこなかったのではないだろうか。

「エマ?」
やさしく呼びかける声がして、私の手の下で、エマがびくりと肩を震わせるのが分かった。
私もその場に凍りついた。
逆光でよく見えないというのに。
そこへ入ってきた背の高い人影が、隆明さんだと、すぐに分かった。
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