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●  まるで愛のような --- 10  ●

果てしなく続くように思えた大平原の風景が終わり、カウラの町が見えてくると、蒔田さんが話し始めた。

ここは日本人にとても縁の深い土地なんですよ、と。
カウラは第二次世界大戦の時に、日本人捕虜収容所が置かれていた場所なのだそうだ。
捕虜脱走事件で大量の死者を出し、今も10月の桜の時期に、慰霊式が行われるのだという。

そんな話とは裏腹な、ぬけるような青空に見下ろされ、私は黙り込んでしまった
カウラまでのルートだけを調べて、隆明さんに会うために、ここまでやって来た。
戦争も歴史も、まるで知らない。

「まあ、私もこう見えて戦後の生まれなんで、これはただの知識でしかありませんが」
と蒔田さんは微笑むけれど。
知っているのといないのとでは、たぶん全然ちがうんだろう。
何かそんなようなことを言おうとして後部座席から身を乗り出すと、地図をじっと眺めていた夏生が「どうした?」とピリピリした様子で振り返った。
先ほどまでとは、うってかわった態度に驚いた。
夏生は緊張しているのだ。
この後に待っている再会でなく、60年前の戦争のことを考えてしんみりしていた私は、夏生の言うとおり、のんきな人間なのかもしれない。
緊張しなくても大丈夫だとか、私も一緒に行くんだからとか、かける言葉は一万通りもあるはずなのに、どれも夏生の小さな誇りを傷つけてしまう気がして、結局私はこう言った。

「ねえ、帰りに慰霊碑に寄ってもいい?」

夏生は宇宙語でも聞いたかのように目を見開き、
「いれいひ……? いいけど」
ぼんやり呟いてから、何故かプッと吹き出し、「いいけどさ」ともう一度言って、今度は肩の力をぬいたように、笑った。



カウラの市街地を走り抜け、ようやく辿り着いたスタンレー家への入り口は、細い小道になっていた。

正面にある、感じのよい木造家屋が母屋だろうか。その周りにいくつかの建物があり、想像していたよりも、大きな規模の農場に見える。
農場と言っても何をやっているのかは聞いていないけれど、牛の臭いもしないことから、酪農ではなさそうだ。ここへ来る途中に見えたビニールハウスがここのものだとすると、建物の向こうに野菜畑があるのかもしれない。

母屋の前で停めてもらい、蒔田さんと明日の相談をして、車を降りた時だった。
バタン、と乱暴に母屋のドアが開き、「エマ!」と女の人の叫ぶ声がして、私と夏生は顔を見合わせた。
ドアから飛び出して来た男の子――髪の短さとジーンズ姿から、最初はそう思った――は私と夏生にぶつかって転びそうになり、私はとっさにその小さな肩をつかんだ。
転びかけた相手は、驚いたように顔を上げた。
短い前髪の奥の、意志の強そうな暗褐色の瞳が、まっすぐに私を射る。こんな時だけれど、綺麗な子だ、と思った。
隆明さんの今の家族――スタンレー家には、11歳の女の子がいると聞いていた。
この子が?

「はなして」

その薄い唇から、予想もしなかった日本語が発音されて、驚いて「え?」と聞き返してしまう。
「はなして!」
今度こそ叫んで、彼女は私の手を振りほどいた。
脇に建っている小屋の横道へ、小さな体は逃げ込むように走って行ってしまう。
「夏生、これお願い。あと挨拶も」
「おい、貴子!」
夏生の手に荷物を押し付ける時に、母屋のポーチへ出てきた女性の姿がちらりと見えた。
青ざめた顔をした、女の子と似た顔立ちのブルネットの女性が、たぶん母親で、隆明さんの奥さんだ。その後ろに背の高い影が見えた気がしたけれど、私は構わずに女の子を追いかけた。

迷子になるなよ、と呆れたような夏生の声が、遠く聞こえた。

ここまで来ておきながら、結局のところ夏生ひとりに隆明さんとの対面を押し付けてしまったわけだけれど、私がそのことに気付くのは、汗びっしょりになって、エマに追いついてからのことだった。

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