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Letters

14

「だいたい何だよ、”祖母らしいことをするのはこれが最後”って。――ああ、確かにそうだよな。祖母さんは俺に”勉強してるのか”と”戸締りはしたのか”しか聞かない人だった」
「おい、永。なに怒ってんだよ。そんなに嫌なら、この話やめようぜ」
「うるさい」
 永ちゃんはギラギラするような目で俺を睨んだ。
 こんな目をするのを見るのは初めて――いや、去年の秋、俺が知らずに付き合ってた女の人が実は永ちゃんのお袋さんだってことが分かったとき、一度見たっきりだ。
 あとで少しだけ冗談めかして「……おまえなんか殺してやるって思った」とこの男は言ったが、それはつまり、あのときと同じくらい永ちゃんは怒っているということなんだろうか。
「志村、おまえは知ってるだろう。祖母さんが離婚したことがあるって」
「ああ、聞いたことがある。確か、祖母ちゃんと見舞いに来た親戚のひとが同じ苗字だったから、祖母ちゃんの旦那は婿養子だったのかって聞いたときだ。面白くなさそうに「安斎は旧姓ですよ」って言われた」
「何故、離婚したのかは知ってるか?」
「……知るわけないじゃん、そんなこと」
「不倫だよ。勤めてた学校の教え子とデキちまったんだ」
「あの祖母ちゃんが!?」
 思わず大声を出してしまった。
 それくらいショッキングな話だった。というか、信じられない。それなら、ピエルルイジ・コッリーナが実はC−3POと同一人物だってほうが信じられる。
「でもよ、それと永ちゃんが何の関係があるんだよ?」
「相手の教え子が俺の父親なんだ」
「ええっ!?」
 ……それはまた、何と言っていいやら。
 一時的な感情の昂りが去ったのか、永ちゃんの表情は元に戻っていた。逆にいつも以上に感情がそぎ落とされてしまっているようにも見えた。
「二人の間には子供までできたが、その子が生まれてくることはなかった。流産だったのか、あるいは堕ろしたのか、そこんとこは分からないけどな。祖母さんは旦那さんと別れて、過去の汚点でしかないクソ親父のことは忘れて、一人で生まれてこなかった子供の供養をしながら生きてくつもりだったんだ。――母さんが親父と出会って俺を産んだりしなかったら、そうできたはずなんだ」
「やけん、お祖母ちゃんは向坂くんのことを嫌っとったってわけ?」
 真奈の声もどこか痛々しかった。
「嫌いだと面と向かって言われたことはない。祖母さんは生きてる間、そんなことがあったなんて素振りは見せなかった。父親を蛇蝎のように嫌っているのは知ってたけどね。俺にはまるで二人を挟んだ間に国境でもあるんじゃないかと思うくらい、よそよそしかっただけだ。そりゃそうだよな。俺を見れば嫌でも親父のことを思い出してしまう。そうすれば、もう一人の子供のことだって思い起こさずにはいられなかったはずだ」
「そんなん、向坂くんの責任やないやん」
「ああ、そうだろうさ。でも、人の感情なんて理屈で割り切れるもんじゃないだろ。なのに、俺は祖母さんと分かり合いたいなんて思ってた。俺が近寄ってくることが、どれほどあの人に苦痛を与えていたかも知らずに――」
 永ちゃんはそれっきり、顔を伏せてしまった。
 俺は今、奇跡を目にしているのかもしれなかった。永ちゃんが自分の本心を話すなんて長い付き合いでも一度もなかったことだ。
「――ホントに苦痛やったんかな?」
 真奈が言った。永ちゃんは顔を上げた。
「どういうことだい?」
「仮に苦痛やったとして、どうしてお祖母ちゃんは向坂くんを引き取ったりしたと?」
「他に方法がなかったからだろう。元教師としての職業倫理もあったかもしれないし、世間体ってやつが脳裏をよぎったのかもしれない」
「……なるほど、ね」
 真奈はゆっくりと部屋の中を横切って、窓際にあったもう1つの椅子を引き寄せた。それを永ちゃんの向かいに置いて腰を下ろす。
「――ねえ?」
 呼ばれたのは俺だった。
「なんだ?」
「向坂くんって女の子にモテる?」
「はあ?」
 何を言い出すんだ、こいつは?
 あまりの話の方向の変化に、俺も永ちゃんも着いていけていない。
「えーっと、まあ、影ではけっこう騒がれてるみたいだけどな。同じ学年の連中と違って落ち着いてるし、見た目もそんなに悪くないしな」
「やろうね。じゃあ、女の子と付き合ったことは?」
「俺が知ってる限りはねえよ。影で付き合ってたんなら別だが」
「そんなことはしてない」
 永ちゃんが言う。声には露骨な戸惑いがあった。当たり前だ。
「それがどうかしたのかよ?」
「ううん、やっぱりなあって思って」
 真奈はクスクスと笑い出した。
「どういう意味だよ?」
「あんたは同じ年頃の子のこと、バカにしとるみたいやけど、女はそがんバカやなかとよ。こがん女心の分からん朴念仁とか、最初から視野に入っとらんって」
「俺が――?」
 朴念仁というところにも、女心が分かってないことにも大いに賛成だが、真奈が永ちゃんのどこを指してそう言ってるのかは俺にも分からなかった。
「あんね、向坂くんのお父さんを好かんけんって、何で孫まで憎まないけんと。そがんと、別の話やろうもん」
「それはさっき言っただろう。人の気持ちなんか理屈で割り切れないって」
「そこが女心が分かっとらんっていうんよ。それはそれ、これはこれ。女の気持ちと母親の気持ちは別のもんよ」
「それは一般論だろ。祖母さんの場合は事情が――」
「あー、もうっ!!」
 真奈はさっきのスクラップブックを永ちゃんの膝の上に放って、最後に読んでた手紙のところを開けと言った。永ちゃんは訳が分からない表情のまま、言われたようにページをめくった。
「最後んとこ、何て書いてある?」
「”私にとっても、初めて永一に普通の祖母らしいことをしてやれた一日でした。ですが、それもこれが最初で最後です”――これがいったい何だって言うんだ。祖母さんが俺を拒んだって証拠じゃないか」
「ホントにそう思うとね?」
「他にどんな解釈があるんだ?」
「そがん思うとならそれでもよかよ。でも、何でお祖母ちゃんは向坂くんを拒んだとに、手紙には成長日記んごと孫のことば書き続けたとね?」
 永ちゃんは黙って真奈の目を見返している。答えはでない。
「お祖母ちゃんが向坂くんを見て、昔のこととか思い出すっていうとは本当かもしれん。わだかまりを抱えとったんもそう。でも、大事な孫のことを愛しとったとも事実やと思う。そうやないなら手紙に孫のこととか書かんかったはず、いや、書けんかったはずやもん。たぶん、周りの誰の目にも触れんはずのお兄さん宛ての手紙の中でだけは、本当の気持ちを吐き出せたっちゃないと?」
 短い沈黙。永ちゃんは魂の抜け出す音のような長い息を吐いた。
「……それは俺も考えたことがある。祖母さんは何も知らない俺に不満をぶつけたりしないように、自分なりに公平でいようとしてくれてたんじゃないかって」
 真奈は盛大に鼻を鳴らした。
「あんた、ひょっとして特大のバカ?」
「……バカ?」
「まだ分からんとね。そりゃ、お祖母ちゃんも人間やけん、何もかんも割り切ったりはできんやったろうね。向坂くんのことを大事に思っとっても、何かの拍子にお父さんのこととか思い出してつらく当たってしまうことがあるかもしれん」
「だから、それは俺がさっきから――」
「理由が違うったい!! 何で、お祖母ちゃんが距離を置こうとしたかって、そりゃあ、自分の感情がコントロールできんくなって、大切な孫を傷つけるんが怖かったからに決まっとるやんねっ!!」
 猛烈な剣幕に押されて、俺と永ちゃんは何も言うことができなかった。真奈はそんな男二人を交互に見やりながら、少し恥ずかしそうな顔で口を尖らせていた。
 長い沈黙があった。
 耐えられなくなった俺は、何でもいいからこの場の雰囲気を変えられる言葉を捜した。でも、そんな都合のいいものは見つからなかった。
 やがて、永ちゃんが静かに口を開いた。
「俺は祖母さんにまで、背中を向けられてたと思ってた。でも……、そうじゃなかったんだな」
 永ちゃんの声は震えていた。何かがカタンと音を立てて、すべてがあるべきところにはまったような気がした。 
 
 
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