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Letters

13

「どうしたんだよ。ずいぶん早かったけど」
「ああ、ざっと眺めただけだからな」
 永ちゃんは手にしていたスクラップ・ブックをパタンと閉じた。
 馬鹿でかい書斎机の前で高い背当てのついた椅子に腰を下ろす永ちゃんは、まるでこの部屋の主のようだ。どこにいてもその場から浮いたりしない男だけど、運動部の部室よりは図書館の方が似合ってる。
「それでも、ぜんぶに目を通したんだろ?」
 俺は机の上のスクラップブックを見た。数えたわけじゃないが10冊近くある。
「いかにも祖母さんらしい手紙なんだ」
「どういうことだよ?」
「読んでみれば分かる」
 永ちゃんは手元の一冊を俺の前に置いた。
「……いいのかよ、俺が読んで」
「別にいいよ。読まれて困るようなことは書かれてないし」
 恐る恐る、スクラップブックを手に取った。隣から真奈が開いたページを覗き込む。
 手紙は便箋1枚のひどく短いものだった。
 最初に”拝啓、衛兄さん”から始まって、そのときの時候の挨拶。今読んでるのはどうやら春先の手紙のようで”新緑の薫る季節となりましたが――”という書き出しになっている。それに続いて兄さんの身体を気遣うような文章、自分の近況。この頃、祖母ちゃんは持病の腰痛が思わしくなかったようで、学校が終わってから馴染みの整骨院に通い詰めだったらしい。
 しょっちゅう家に出入りしてた俺の知る限り、祖母ちゃんが腰が悪そうな素振りを見せたことは一度もない。それもあの祖母ちゃんらしいと言えばそういうことになる。
 最後にこれからの予定やちょっとだけ仕事のことを書いて、手紙は締めくくりになっていた。
「なんとなく、永が言ってる意味が分かった」
 永ちゃんは薄く笑った。
「だろ? 文章は短いし、表現も簡潔だし。まるで用件だけ書いたメモみたいだ。無駄がないって言えば聞こえはいいけど、せっかく遠くの兄さんに出すにしては味気ないよな」
「でもよ、最後には追伸だけど、ちゃんと家族のこととか書いてあるのな。この手紙も永のことが書いてある。なになに、”今年、永一が中学校に上がりました。ちゃんと授業についていけるのか、瀬戸先生は自分の孫のように心配してくれていますが、あの子のことだから私はそれほど心配していません”――って、これだけかよ?」
「祖母さんらしいだろ?」
 他のページもパラパラとめくってみた。どの手紙も似たり寄ったりの内容で、長さもだいたい同じだった。便箋が2枚以上になってる回はだいたいが兄ちゃんの身体に何かあったときで、テレビとか本で仕入れたような健康関係の情報とか、どうやって調べたのか分からないが”その病気なら九州だとどこの病院が評判がいい”とか、そういう内容が割増分の便箋を埋めていた。
 要するに、それ以外のことは毎回同じくらいの長さだった。他に気づいたことは、家族のことが書いてあるまるで追伸のような短い文章は、実は家族じゃなくて永ちゃんのことに限られているってくらいだ。
「どうして、祖母ちゃんは永のことしか書いてないんだろうな。お袋さんのこととか、他にも書くことはあっただろうに」
「母さんとは仲が悪かったからな」
 俺はスクラップブックを机に置いた。真奈はそれとは別のを拾ってページをめくり始めた。永ちゃんはチラッとそっちを見たが、何も言わなかった。
「さっきの歌、真奈ちゃんが歌ってたのかい?」
 永ちゃんが聞いた。真奈が顔を上げる。
「こがんとこまで聞こえた? アタシ、そがん大声出しとったとかな?」
「そうじゃないよ。こっちは風下だし、他に物音らしい音もしないからね。あれはホール・ニュー・ワールド?」
 真奈はそうだと答えた。その間も何かを思い出すような顔をしながらページをめくっている。何してんだ、この女?
「志村に歌って聞かせてたのか」
「歌って聞かせろっていうんやもん。一人でデュエットの曲とか歌うと、難しかとに」
「途中で声のトーン変えてたの、ひょっとして歌い分けてたのかよ?」
「そうたい。地声が低かけん、ソプラノはあんまりキレイに出らんとやけど」
 俺は歌詞の中にカッコで括ってあるところとそうでないところがあったのを思い出した。そういえば、真奈はカッコのところだけ声を高くしていたし、訳の文章も女言葉になってた。つまり、そこが女性パートだってことなんだろう。
 俺がそのことを言うと、真奈は顔をしかめた。
「あんた、今ごろ気づいたと!?」
「仕方ないだろ。歌詞を目で追うので精一杯だったんだしよ」
「あーあ、こがん無神経な男に歌ってやって損した」
 地声に比べれば無理をしてたような気はしたが、本人が言うほどおかしくはなかった。でも、それを言うのはやめておいた。
 永ちゃんはふと気づいたように真奈を見た。
「志村に便箋を渡してたってことは、真奈ちゃんはソラで歌ってたんだろ。よく、あんなに英語の歌詞なんか覚えてられるね」
「ああ、あれ? ウチの父親があの歌が好きやったけん、嫌になるくらいデュエットの相手させられたんよ。小学生に歌わせる曲やないと思うっちゃけど、母親が聴くのは好きやけど歌うのはまるで駄目って人やったけん、その代わりでね」
「そうなのか。あれは確か、ピーボ・ブライソンと――?」
「レジーナ・ベル。でも、アタシはそのヴァージョンは好かんっちゃけどね。なんか、無駄にソウルフルでムード歌謡みたいやし」
 永ちゃんはプッと吹き出した。そのピーボなんとかの歌を覚えていない俺には何のことだか分からない。
 ん、待てよ?
「永はどうして、その歌のことを知ってるんだ?」
「有名な曲だって真奈ちゃんが言ったろ。俺だってテレビ番組くらい見るしエフエムも聴くさ」
「初めて聴いたんは、そんときじゃなかごたるけどね」
 真奈の一言に永ちゃんの動きが止まった。
「真奈ちゃん、それはどういう――?」
「平成5年の夏の手紙に書いてあるよ。”先日、初めて永一を連れて映画を見に行きました。やっていたのはディズニー映画で男の子にはどうかと思いましたが、永一は大喜びでした。映画そのものが面白かったのか、私と出掛けたのが嬉しかったのかは分かりませんが”って。平成5年――93年っていうとアタシが小学校に上がる前の年やけん、やっぱり、封切りで見に行っとるんやね」
「……やっぱり?」
 俺が聞くと真奈は小さく鼻を鳴らした。
「93年は<アラジン>が日本で公開された年。そのときにお祖母ちゃんは向坂くんを連れて見に行っとらすとよ」
 記憶が繋がるのに数秒かかった。
「アラジンって、祖母ちゃんが泣いたっていうあの?」
「そーゆーこと。で、これがさっきのあんたの質問の答え」
 さらに3秒ほど沈黙。
 そういうことか。祖母ちゃんは映画の内容に感動して泣いたんじゃなくて、永ちゃんといっしょに見に行ったことを思い出して泣いたってわけか。――って、あの祖母ちゃんが?
「――どうして、最後まで読まないんだ?」
 永ちゃんが言った。声の暗さに思わず俺はそっちを見た。
「なんのことだよ?」
「真奈ちゃんに言ってるんだ。俺も手紙は読んだ。その文章には続きがあるだろ?」
 今度は真奈が小さく息を呑んだ。
「でも、これは――」
「いいから。言っただろ、別に人に知られても困ることはないって」
 どこか自棄っぱちな響きが気になった。しかし、真奈は手紙に視線を落とした。
「”私にとっても、初めて永一に普通の祖母らしいことをしてやれた一日でした。ですが、それもこれが最初で最後です”」

 
 手で触ってお互いに投げつけあえそうな重苦しい沈黙が、風通しのいい部屋に圧し掛かった。
 3人とも黙り込むと窓から遠くの物音が聞こえてきた。ずいぶん離れているはずなのに、オバハンの中学校のチャイムの音まで届くのだ。ほとんど車の通らない田舎道を誰かが盛大に空吹かししながら走り去っていく。
「――永、いったいどういう意味なんだよ?」
 俺が聞くことじゃないのは分かってる。それでも、聞かずにはいられなかった。
「祖母さんに連れられて街の映画館に行ったのは、母さんが付き合ってた男の車から落っこちて入院して、仕方なくしばらく預けられたときだ」
 永ちゃんがつぶやいた。
「それまでそんなふうに二人きりになったことがなかったから、何を話していいのか分からなかったのを覚えてるよ。母さんはできるだけ祖母さんのところには寄り付かないようにしてたからね」
「お祖母ちゃんとお母さん、仲が悪かったって言いよったね」
「母さんは何ていうのか、奔放な性格でね。カチコチの堅物の祖母さんにはずっと反発してた。もちろん、本心ではお互いに仲良くしたかったんだろうとは思うけど、口を開けば罵りあいをしてるような親子だったな。祖母さんは俺の目の前ではやらないようにしてたつもりみたいだが、隣の部屋で寝てれば嫌でも耳に入ってくる」
「……そうやろうね」
 真奈の声もいっそう低くなっていた。
「俺は祖母さんが好きでも嫌いでもなかった。そんな感情を持つには、俺は祖母さんのことを知らなすぎたからね。それなのに、どうして映画なんか見に行くことになったのか――それは本当に思い出せない」
「向坂くんが行きたいって言ったっちゃないと?」
「俺はそんなこと言わないよ。たぶん、祖母さんのほうが間が持たなかったんじゃないかな。で、映画でもってことになったんだろう」
「お祖母ちゃんは向坂くんがすごく喜んでたって書いとらすよ?」
「俺だって、その頃から今みたいな性格だったわけじゃない。それに、俺は母さんにもロクにどこかに連れて行ってもらったことがなかった。お出かけってだけで嬉しかったんだと思う」
「映画のことは覚えとる?」
「……どうだろうな。そのときのことはよく覚えていないんだ。アラジンのあらすじも、ホール・ニュー・ワールドも、ずっと後になってたまたま見る機会があったから知ってるんだ。だいたい、小学校にも上がってない子供に英語の歌の良さなんか分かるはずないだろう」
「そりゃあ、そうかもな」
 俺は言った。いくら永ちゃんでもそれは無理だ。
「でも、お祖母ちゃんにとってはそうじゃなかったわけよね」
 真奈が言った。
「祖母さんが泣いたって話か。どうなんだろうな。単に歳をとって涙腺が緩くなってただけじゃないか?」
「そがんこと――」
「じゃあ、他にこの手紙をどう解釈すればいいんだ?」
 永ちゃんの声に、静かな怒気がこもった。

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