水上奇譚

28話「贖罪」



「本当に通報されたりしませんよね?」
「しない」
「大声出されたりしませんよね?」
「絶対ない」
「大賀さんの断言って、あやしいなあ……」
本当に? と敬司朗は疑わしげに周囲をうかがっている。
山梨県小淵沢町。
中央自動車道を降りて10分ほどの八ヶ岳山麓をのぞむこの別荘地は、標高の高さゆえに気温も低い。
(思ったより寒いな)
薄手の春用のジャケットでは遮ることの出来ない冷気が、皮膚に浸みこんでくる。
夜明け前の暗闇のなか、大賀は気乗りしない様子の敬司朗を連れて、懐中電灯を片手に私道を歩いていた。長原貞明から勝手に借り受けている状態のレガシィB4は、エンジンを止めて少し手前の林の中に置いたままだ。無断で侵入するわけではないのだが、この静けさの中でエンジン音を轟かせて玄関前に乗り付けるわけにはいかない理由があるのだった。
「大賀さん……」
敬司朗が大賀の袖を引いた。
前方から時折、チラチラと強い光が視界をかすめる。
「大丈夫だ――おおい、こっち」
大賀は敬司朗を庇うように前へ出ていたが、相手が見知らぬ人間ではないことには確信があった。
「……尚人?」
現れたのは、明かりを手にした利章だった。
「よう、来たぞ」
大賀が口の端を上げると、利章は「おつかれさん」と労うように肩を軽くたたいた。
「遠かったろ、道空いてた?」
「この時間だからな。思ったよりは早く着いたよ」
大賀のうしろにいる人物に気づいて、利章は足を止めた。
「あ、それじゃこっちがその役者さんて人? どうも遅い時間にすみません、お世話になりますー」
「えっ? あ、どうも」
ほがらかに握手を求められ、条件反射のように敬司朗はその手をとった。
「大賀さん……」
「いいから」
「よくないですよ。なんですかそれ。いつ僕が役者になんか」
「いいから気にするな」
「気にしますよ!」
「なに、どうかした?」
小声でのやりとりは、先を行く利章に遮られた。
「なんでもない、それより部屋はあそこなのか? 様子は?」
尚も文句を言いつのろうとする敬司朗を手で制して、大賀が問いかける。利章は首を傾けて、疲れた表情で手にした明かりを持ち替えた。
「うん……、おまえに言われたとおり、部屋はあの寝室をつかってもらってる。最初はちょっといやがってたんだけど……、エアコンが故障してるからってことにして、強引にさ。今は寝たり起きたりの状態で、ぼんやりしてることが多くて、様子はあんまり変化なしかな」
「そうか」
大賀は満足して頷く。背の高い赤松が立ち並ぶ向こうに、津田家の所有するログハウスが見えてきた。



――どうせ私も景子さんも、あなたにとっては同じなんでしょう


(何が悪かった?)
ただの感傷とも違う、まして後悔でもない。それでいて大賀がいつも繰り返し思い出すのは、秋絵のことだ。
「うちでお世話している遠縁の息子さんなの。ほら尚人、ご挨拶して」
気まぐれに大賀を連れ歩き、知人に尋ねられれば悪びれもせずにそう答えた。
実際のところ大賀などはその程度の存在でしかなかったはずだ。身寄りのない大賀にとっては無くてはならない後見人であったが、暇を持て余した秋絵にしてみれば、ただの気まぐれにすぎなかった。
「ね、あの子に声をかけてみて」
「どの子?」
「あの髪の長い……ね、15分以内に仲良くなれる?」
秋絵はいつものように、にっこり笑って無理難題を押し付けた。
視線の先にいるのは、まだ20歳そこそこに見える幼さの残る横顔の若い女で、折しも連れらしき年配の男が傍らに戻ってきたばかりだった。
「うーん……、タイミングがつかめないから、30分」
「すぐコースに出ちゃうからダメよ、20分ね」
「了解」
言い出したら聞かない秋絵に、やれやれと大賀は首をすくめた。
そもそもが秋絵の取り巻きのひとりである、近藤という男に連れてこられたばかりの完全なアウェイである。テニススクールや乗馬クラブのように会員が一人でやってくるような場所であればまだしも、ここは戦前に創設された関東有数の名門ゴルフ場のクラブハウスであり、正会員は男性のみ、よってクラブハウスで見かける女性に同伴者がいることは必至だ。
さて、どうするか――大賀は考えをめぐらせながら立ち上がった。警戒心のない相手には直に物を尋ねるのが一番とりつきやすい方法ではあるが、ガードの堅そうな相手ならば、無理せずに連れの男と知り合いになってもよい。
秋絵の気まぐれを満足させることが目的なので、手段は幾とおりでも浮かんでくる。自分の欲求による行動でないのなら、人はかなり冷静になれるのだ。
大賀は秋絵が「拾いあげた貧しい少年を磨きあげる」という感覚を楽しんでいることを知っていた。
そして社交能力というものは、場数を踏むことでしか育たない。大賀自身にも意外であったことに、秋絵のただの気まぐれにも見える教育は、現実に効果を上げつつあった。

(なんだろう?)
大賀が大学に入学した年の冬だった。秋絵の家の門の前に、子供の後姿があった。近所の小学生だろうか、それにしては見かけない顔のような――と思いながら、大賀はその半ズボンの小さな後姿に声をかけた。
「何か用かな?」
びくりと肩を震わせ、子供が振り返った。
脅えた目ではなく、下からきつく睨みつけてくるその視線に、大賀は一瞬たじろいだ。
「あ、ま――」
待てと引きとめる間もなく、パッと身を翻して、子供は駆け去ってしまっていた。
「あれ! 尚人くんじゃないか。やあ、おかえり!」
そのとき玄関の扉から出てきたのは、会計士という肩書きにしては派手なスーツを身に着けた若い男だった。
「……長原さん、いらしてたんですか」
大賀の会釈に、長原貞明は車のキーを振り回しながら、神経質な笑い声をたてた。
「あはは! まあそうロコツに嫌な顔しないでくれよ、もう退散するところだからさ」
秋絵の夫の身内であるというこの会計士は、訳知り顔で大賀の肩をポンポンと叩いた。
当然ながら、大賀は露骨に表情を変えたりはしていない。ありもしない事実を口にすることで相手の落ち度をつくりだし、優位に立とうとするのは、この男の得意とする話術なのだった。
不愉快な癖ではあるが、どうしていちいち相対する人間の優位に立たなくてはならないのか、その不安定な精神の在りようが大賀にとっては興味深かった。その虚勢には「何かとてつもない弱みを抱えてそうな」臭いがするのだ。
「小学生の男の子が――」
「えっ、なに?」
大賀のつぶやきに、思ったとおり長原は大げさに反応した。
「小学生の男の子が今ここから覗き込んでいたんですが、長原さんの連れてきた子じゃないですよね?」
「この僕が? 小学生を?」
顔をしかめた長原に、大賀は微笑んだ。
「そうですね、関係ないですよね。様子がおかしかったから……すみません、忘れてください」
あっさりと引き下がって長原の脇をすりぬけると、「ちょっと待てよ、どういう子だった?」と不安げに引きとめられ、大賀は胸のうちで少しだけ笑った。
ただの思わせぶりの小さな嫌がらせで言ってみただけであったのだ。まだ、この時には。


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