水上奇譚

29話「贖罪2」



「くどいようですけど、本当の本当に通報されたりしませんよね? 痴漢や泥棒と間違われて警察なんか呼ばれても、知らないですからね!」
先ほどから同じセリフを繰り返す敬司朗に、壁にもたれた大賀は腕組みしたまま首を振った。
「くどいようっていうか……、くどい」
「だって、仕方ないじゃないですか! 身分なんか証明できないんだから!」
頬を紅潮させた敬司朗が憤慨して声を荒らげると、そこへ利章が顔を出した。
大賀の指示により、間接照明のみを残したログハウスのリビングは薄暗い。これには別室で眠る知佳子を刺激しないようにという表向きの理由のほかに、津田をよく知る甥である利章に、この敬司朗の顔を見せないようにという大賀なりの配慮があった。
「どうした? 打ち合わせ中? ところでふたりとも何か飲みませんか、コーヒーくらいしかないけど……」
尋ねながら、利章が敬司朗の顔を覗き込む。
「うーん、声が似てるせいか、なんだか顔まで似て見えるなあ。声が似てるってことは骨格が似てるってことなんですかねえ」
「はあ、そうかもしれないですね……」
敬司朗が困惑した様子で体を引き、助けを求めるように大賀を見た。いま置かれている状況も、こうして顔を突き合わせている男が誰なのかも知らされていない身としては、返事のしようもないのだろう。
このログハウスは津田が結婚後に購入したものであり、今ここにいる敬司朗にとっては、この別荘も、ここで静養している知佳子という妻も、いまだ出会っていない未知の出来事なのだ。
(そろそろ、いいか)
腕時計に目をやって、大賀は顔を上げた。
東の空が明るくなる前のひとときの、夢のような時間帯が、この一幕には相応しい。
「行くぞ、こっちだ」
ウッドデッキに続く扉をそっと開け、大賀は敬司朗を外へと連れ出した。
知佳子が眠る1階の主寝室へは、ここから直接入ることが出来る。生前の津田はこのログハウスの広いバルコニーを気に入っていて、夏になると大賀たちを引き連れて訪れては、皆がバーベキューをやっているのを横目に見ながら、長椅子を持ち出して昼寝していたものだった。
「……あの、侵入する前に、ひとつ確認しておきたいんですが」
寝室へ続くガラス戸に手をかけて、敬司朗が振り返った。
侵入、という単語に大賀は苦笑する。
躊躇するのは無理もないことで、この男にしてみれば、これは知らない土地で他人の家へ不法侵入することに他ならない行為なのだ。
互いに吐く息は白く、当然ながら今は真夏ではなく春先で、昼寝をする津田もいなければ、幸せだったころの知佳子もいない。そのうえここに立つ敬司朗は、津田とは別人と言ってもいいほどの存在だ。
(まあ、それくらいは何とかなるだろう)
薬の力でまどろむ知佳子が、ほんの少し騙されてくれれば良いだけのことだ。大賀は安心させるように目の前の男に語りかけた。
「……通報はされないよ。携帯電話は持たせてないし、部屋の電話も内線しかかからないようになってる」
ところが大賀の言葉に、敬司朗は生真面目そうに「いいえ、もうそれはいいんですけど……」と首を振った。
「本当に、言われたとおりのことを言うだけでいいんですか? 本当にそんな言葉くらいで、そのひとに何か効果があるんですか?」
真剣な口調で、暗がりではよく見えないであろう大賀の目を捉えようとする。その見えない視線を受け止めて、大賀は微笑んだ。
「いいんだ、頼む」
敬司朗が入っていくのを見届けて戻った大賀に、待ち構えていた利章が問いかけた。
「……行った?」
「行った。まあ、俺にしては小さい詐欺だけど、素材がいいから騙されてくれるだろ」
「なー! あの役者さんてひと、すっごい敬ちゃんに似てるもんなあ! 俺だって信じちゃうよ」
「だろ」
なにしろ本物なのだから、と大賀は胸のうちで呟いた。
大賀が指示したのは「傷つけてすまなかった」「君といられて幸せだった」という二つのセリフのみであった。わざわざ何時間もかけて連れて来られた敬司朗にしてみれば、与えられた仕事は物足りなく感じられるのだろう。
だが、それ以外の言葉では、おそらく嘘になる――知佳子が心の底から望んでいる夢を見せるのは容易いことだ。敬司朗の声と姿で、「本当に愛していたのは君だけだ」と優しく告げることもできる。
しかしその幸福な夢は、目覚めた途端に、さらに深い絶望へと知佳子を突き落とすかもしれないのだ。
津田が他の女との間に子供を持ち、愛人さえつくり、妻を裏切っていた現実は消えはしない。
誰よりもその現実を知る知佳子に必要なのは、夢のような嘘ではなく、現実と折り合いをつけるきっかけなのだ。

部屋に入って30分ばかりがすぎたころ、音もなく敬司朗が戻ってきた。
「あの……眠ってしまったみたいなので……」
振り返る仕草で、寝室の知佳子の様子を告げる。大賀は「そうか」と答えて立ち上がり、目をこすりながら利章が身を起こした。
「尚人おまえ、眠くないの」
「倒れそうに眠い」
「部屋たくさん空いてるし、ちょっと寝てけば?」
利章の気遣いに、大賀は苦笑する。
「ばか、ばったりオハヨウなんて顔合わせたら台無しだろ。どこかのサービスで仮眠するよ」
いまだぼんやりした様子の敬司朗の腕をつかむと、大賀はさっさと津田家のログハウスから抜け出した。林へと隠したレガシィB4へ乗り込み、エンジンをかけるまで、大賀は連れの男が一言も口をきかないことには気づかないふりをしつづけた。
「お疲れさん。帰りはもう寝てていいぞ」
助手席からの返事はなく、大賀はかまわずに車を発進させる。薄明が朝焼けに変化して、空が滲むような赤みを帯びて見える。
「夕焼けも朝焼けも――」
ふいに敬司朗が口を開いた。
「理屈としては同じ現象ですよね。なのに、こうして見ると違うような気がするのは、何故なんでしょうね……」
前方に注意を向けている大賀には、その表情までは分からない。さあ、と素っ気なく応じてから、ふと思い直して付け加える。
「それは気のせいじゃなくて、実際違うんじゃないか? だって目に見える色ってのは、太陽光の屈折率だけの問題じゃなくて、レイリー散乱とミー散乱だろう? 朝夕だと気温が違うし大気の条件も違うし、これから明るくなっていくのと暗くなっていくのとじゃ、そもそも見え方だって違うだろ」
「……ええと、まあ、そうですけど……」
「なんだよ」
「いえ、屈折とか散乱とかそういう話じゃなくて、もう少し情緒的な――まあいいか」
気がつくと、助手席の男は仕方ないなとでも言いたげに笑っている。ろくに説明されずに押し付けられた役目が完了して緊張がとけたものか、この敬司朗にしては珍しく、肩の力の抜けた笑い方だった。
「ああ、大賀さんと話していると、たいがいのことはすっきり説明がついて何てことないみたいな気がしてきて、いいですね」
「悪かったな」
「悪くないです。いろいろと思い出して、ちょっと後ろ向きなことをつらつら考えてたので……」
ようやく笑いをおさめて、敬司朗が口調を変えた。
「さっきの、あの人……泣いてましたよ」
あの人とは、聞き返すまでもなく知佳子のことだろう。大賀はただ「そうか」と頷いた。
「それで、眠りこむまで、ずっと強く手を握られてました。泣きながら、行かないでって」
――行かないで。そばにいて。
「でも大賀さんが言うんだから、きっと、あれでよかったんですね……」
すう、と息を吐く音がして、それきり敬司朗は助手席で眠りこんでしまった。安心しきった様子を横目に、大賀はひとり取り残されたような気分を味わった。
知佳子があれでよかったのかどうかなど、大賀に確信があるはずもない。それは知佳子しだいの、この先の未来のことなのだから。
(どうして聞かない?)
いま大賀の頭を占めているのは、自分では分かりきっている、変えようのない過去のほうであった。

利章が何者なのか、
自分の手にすがって泣く女は誰なのか、
いったい何があったのか、
この聡い男が疑問に思わないことなどあるだろうか?

元より、聞かれても答えるつもりのない問いであったのだが、問い詰められるであろうと覚悟していた事柄は、見事になにひとつとして聞かれていない。この敬司朗がどこまで気がついたのか、あるいは気づかなかったのか、探りようがないほどに。
(よけいなことは――知らなくていい)
知佳子の為にこの男を利用はしながらも、大賀には最初から余計な説明をするつもりは無かった。柳井家の屋敷がウェブにアクセスすることさえ出来ないような不便な状態である意味が、今になって大賀にも理解できるようになっていた。
この男が余計なことを知る必要はないのだ。余計な――たとえば、自分の死期であるとか、そういうことを。

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