水上奇譚

27話「リスタート」



「読むのは? 得意なほうか?」
おかしな言い回しであったが、敬司朗は大賀の意図するところを汲みとって頷いた。
「たぶん。資料を読むのは早いと思います」
そういえばこの男は、すでにこの時代の情報収集を終えているのだと、大賀はかつて無断で入り込んだ小部屋に積み上げられた雑誌類を思い出した。
ファッション誌から週間の漫画雑誌、果てはダンス・マガジンのように購読対象の限られたものまで――あのような雑多な情報を集めて分析する能力があるとすれば、のちの成功もただの幸運ではないだろう。
「これをざっと読んでみてくれ」
大賀は小山を築いている紙束を顎で指してみせると、ひとつを手にとって敬司朗へと手渡した。
「とりあえずは全体像を把握したいから、こまかいところまで読み込まなくていい。通し番号をつけて、リストを作りたい。あとで分類できるように項目をつくって、書き手は何者か、いつごろ書かれたものか、それからテーマ……何について書かれたもなのか、くらいでいいか。ついでに備考として、気になることがあったら簡単にでいいから加えておいてくれ」」
矢継ぎばやの事務的な指示に、敬司朗は戸惑った様子で受け取った紙束と大賀の顔を交互に見比べている。
相手の困惑などお構いなしに大賀は次の紙束を手にとると、どかりとその場へ座り込んだ。
(時間がない)
ここに来てようやく、のんびりとかまえている時間がないことに気づいたのだ。
すでに三週間後に取り壊しが決まっている屋敷。そうでなくとも入院中の柳井美保がいつ退院して自宅へ戻ってくることになるかもしれず、そうなればすぐにも敬司朗を連れて撤収しなければならない。住み慣れた自分のマンションへ戻っての生活は大賀にとって歓迎すべきことだが、問題は「この屋敷」という場所を離れることなのだ。
(「ここ」に意味があるかもしれない)
大賀を急き立てているのは、「この屋敷」という場所そのものが何らかの意味を持っているのではないかという思いだった。
簡単にここを離れるわけにはいかない。
何といっても、敬司朗が現れたのは、この屋敷のこの池であったのだから。
「あの……」
「なんだ?」
遠慮がちな呼びかけに顔を上げると、敬司朗が途方に暮れた様子で立ち尽くしていた。
「あの、これはその……いったい何のための作業なんですか? 大賀さんのお仕事とか? 気になるところって言われても、何に気をつけて読んだらいいんです?」
(いい質問だ)
敬司朗の言葉に、大賀はふと口元をゆるめた。
おそらく苦笑いのように見えたのであろう、敬司朗は不安そうにこちらを見つめている。しかし大賀が呆れているのは自分自身に対してであった。
何のための作業であるか、自分はそれすら伏せておこうとしていたのか。
いまだに何かを畏れて、自分はこの話題を避けようとしているのか。
この男が津田敬司朗であるという事実を受け入れられずにいたために、随分と無駄な時間を過ごしてしまったと後悔していながら、性懲りもなく――
「これは仕事じゃない、もっとその……」
(もっと何なんだ?)
大賀は自分でも結論を見失い、ごまかすように額に手を当てた。
ただいまー、という晶子の声とパタパタと走ってくる足音が耳に届いたが、いったいどこから何を切り出したものか、会話の糸口が見つけられず、意味もなく口を開けては閉じるを繰り返す。
どれほど考えても、避けつづけてきた話題をさりげなく持ち出すすべは見つからない。無意識のうちに遠ざけてきた、津田であって津田ではないこの男に、いまさら何と言って歩みよっていいものか分からない。
大きく息を吐き出して、肩の力を抜いてみる。だいたいが、さりげなく切り出せるような内容ではないではないかと諦めて、大賀はようやく口を開いた。
「その……、もっと大事なことなんだ。おまえが元いたところに帰る方法を探してる。……だから手伝ってくれ」
普段の自分らしくもない、ボソボソと自信なさげなつぶやきは、大賀にとって、謝罪と和解の申し出にも等しいものだったが、相手へ通じたものかどうかは分からない。
敬司朗はただ大きく目を見開いて、その場へ立ち尽くしている。そこへ晶子が現れて「なにやってんの?」と呑気な声を発した。
まるで世界一のまぬけになったような気分で、大賀は「べつに何でもない」と首をふったのだった。


敬司朗は大賀の予想以上に手際よく、紙の山を片付けていった。
昼間は空いた時間を見つけては目を通しているらしく、夜は大賀が帰宅してから疑問を話し合い、また互いに黙り込んで紙をめくるだけの作業に没頭する。
四日が過ぎるころ、晶子が「つまんない」と言い始めた。
「つまるつまらないじゃないだろうが。おまえも読め、参加しろ」
顔も上げずに無愛想に返す大賀の背中に、いきなり何かがぶつかってきた。
「つまんないつまんないつまんない大賀のバカ、××の○○○○!!」
退屈した晶子が子供のように寝転んで、大賀の背中を蹴りつづけている。
大賀はまるで取り合わずに「俺が短小でも包茎でも、おまえに迷惑をかける日はこないから心配するな」と言い捨てたが、ふてくされた晶子は床で手足をバタバタさせつづけた。
「あの、お茶にしましょうか」
見かねた敬司朗が立ち上がると、晶子はパッと顔を輝かせて元気よく飛び起きた。
「ケーキあったよね、ヒカルのママにもらったやつ。あれ切るね!」
「だれが深夜一時にケーキなんて食べるんだ」
大賀は呆れて呟いたが、当の晶子はすでに走り去ってしまっている。
敬司朗はとりなすように微笑んだ。
「晶子ちゃんは、大賀さんにかまってほしいんですよ。最近は夕食のあともすぐにこれだから、家族の団欒みたいなことがしたいんじゃないかな」
「家族の団欒……」
仮にも実の父親と昼も夜も一緒にいながら、何故まったくの赤の他人である自分と家族ごっこがしたいのか理解に苦しむが、敬司朗はさらに「大賀さんて晶子ちゃんといると、なんとなくお父さんぽいですよね」と微笑んで大賀を絶句させた。
「晶子ちゃんの不満はともかく、僕もちょっと疑問なんですけど――」
敬司朗は手元の冊子を取り上げると、改まった様子で大賀を見た。
「まだ三分の一くらしか読んでいませんけど、どれもこれも、何て言ったらいいか、あの……」
「それには何が書いてあった?」
大賀の問いに、敬司朗は溜息をついた。
「これは山陰地方の幽霊話、みたいなものでした。さっき読んだのは常世の国で多遅摩毛理がどうしたとかいう、古事記のおかしな解釈だったし、どれもこれもくだらない妄想か眉唾ものの話ばかりで、役に立ちそうな情報がまったく見当たらなくて……」
自分の感想も似たようなものであったので、大賀はただ頷いた。
「本当に、これが何かの役に立つんでしょうか」
改めて聞かれてみると、大賀自身にも答えようのない問いかけだった。
本当のところは、これらのどこかに、津田敬司朗自身が書き残したものが紛れ込んでいるのではないかと期待していた。しかし今のところそれらしきものは見つかっていない。そうなればこれらの文書そのものから答えを見つけ出さなければならず、この事態に直接的に関係のあることか、あるいは他の何かへつながるヒントのようなものか。具体的に何をさがしているのかも分からないまま、この膨大な紙の山から何かを見つけ出さなくてはならない。
しかし何かがあるはずなのだ――そうでなくて、いったいどうして、死んだ津田が大切に保管しろなどと言い残しておくだろう。
「たぶん何かはある、と思う」
大賀は頷いてみせる。
たとえこの片庭嘉一の収集品が何の助けにもならない無関係なゴミの山であったとしても、敬司朗が戻ることが出来るのは間違いない。それが実現したからこそ大賀は津田と知り合ったわけなのだが、この理屈を主張してみたところで、今ここにいる敬司朗が実感できる話ではないだろう。そう考えて、あえて説明することなく大賀はただこう言った。
「これが何の手がかりにならくても、ちゃんと帰れるから心配するな」
「本当に?」
疑わしげな敬司朗に、自信をこめて頷いてみせる。
「絶対だ。おまえは無事にここから帰って、馬鹿みたいに成功して億万長者になって、笑いのとまらない人生をおくるんだよ」
「……またそんな、なんでも知ってるみたいに」
「みたい、じゃなくて知ってるんだ」
「そう言われてもなあ……」
納得のいかない表情の敬司朗と、どこか噛み合わないちぐはぐな会話を続けながら、大賀は思う。
知っているからこそ、話せないこともある。
晶子がこの男の娘であること、柳井美保がその母であること、この男の人生が思いのほか短かったこと、妻を幸せにはしなかったこと。
今にして思えば、津田のとらえどころのない飄々とした態度も、知っている者としての奇妙な抑制から来ていたのかもしれなかった。
「なんだかなあ、胡散臭い詐欺師に騙されてるみたいだなあ……」
大賀の苦笑を見とがめての敬司朗のぼやきには、思い当たるふしがある。
津田もよくこうやって曖昧に微笑んでいた。何でも知っていながら、何も変えることのできない空しさ。いつも超然として見えた姿は、ただ微笑むより他にどうしようもなかったのかもしれない。
その時、畳の上に放置してあった携帯電話が震え出した。
着信したメールを読んだ大賀は、待っていた連絡が来たことを知った。
(やってみるか)
自分から提案しておきながら、必要がなくなればそのほうがいいと思っていたアイデアだったのだが、残念ながら他に打つ手も無さそうであった。

――なんでも知っている、詐欺師みたいな

「俺もずっとあの人をそう思ってたよ」
「え?」
聞き返されたが、大賀はただ微笑んでこたえなかった。
大賀の独り言のような呟きを、いつかこの男は思い出すことがあるのだろうかと考えて、自分の生きる時系列ではすでにそれが過ぎ去った時間であることを思い出す。
何でも知っていながら、何も変えられないことを、津田は空しく思ったりしなかったのだろうか。
すれ違った時間を思うと今さらのように侘しさが胸に広がりかけて、感傷を振り払うように、大賀は立ち上がった。
「上着持ってるか? 標高の高いところだから、寒いかもしれない」
「は? どこか行くんですか? 今から? どこへ?」
携帯電話をしまいこむと、大賀は言った。
「山梨県小淵沢町――八ヶ岳」

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