水上奇譚

26話「破れる因果」


ふと頭が前に落ちて、自分がうたたねをしていたことに気づく。
指をすりぬけた和紙が、音もなく池の縁へと落ちた。
(しまった)
ぼんやりと霞む目をこすりながら、大賀は体を起こした。
開け放した月見の間には、春のうららかな陽射しが踊り、そよぐ風がおだやかに大賀の頬をなでていく。

「大丈夫ですか?」
池の端づたいに庭を歩いてきた若い男に声をかけられて、大賀は再び寝入りそうになっていた自分に気が付いた。
敬司朗が、半ば呆れたような表情で大賀を見上げている。床下を高くとったこの屋敷では、座り込んでいる大賀のほうが、やや目線が高いのだ。
「少し眠ったほうがいいんじゃないですか」
「うん……ああ、大丈夫。なにやってたんだ、それ」
大賀は敬司朗が拾い上げた紙を受け取りながら、脇に挟んでいる竹製の道具へと目をやった。
落葉をかきあつめるための熊手は、春先のこの庭の手入れには不要なものだ。
「ああ、これ。裏側の川みたいなところのゴミを取るのに便利なんですよ。結構いろいろ飛んでくるものなんですねえ……バナナの皮とか」
敬司朗ののんびりとした発言に、大賀は眉をひそめた。
「川って、遣水のことか? いくらなんでもバナナの皮はないだろ……何か庭に入りこんでるんじゃないか?」
小川を模した細長い水路に、風に吹かれてスーパーのレジ袋のようなビニール類が飛んでくるのは、大賀のいた時代にも珍しいことではなかったが、さすがにバナナの皮が紛れ込んでいるのを見た記憶はない。
大賀の指摘に、敬司朗はハッとしたように目を見開いた。
「入りこむって――まさか猿が?」
「猿……」
侵入者を懸念して言ったつもりが、バナナからの単純な連想を返されて、大賀は思わず絶句した。
「なんで笑うんですか」
腹をかかえて笑い出した大賀に、笑われた男が不満を表明する。
「だいたい、大賀さんはタバコ吸いすぎです。どこにいても 狼煙のろしみたいに居場所が分かるし」
いつの間にか無関係な小言に発展していたが、言われてみればそのとおりで、今もかたわらの灰皿の上で、忘れ去られたマルボロ・ボックスが細い煙を上げている。
「顔色だってよくないですよ。そもそも、あんまり寝てないから頭が働かないんです。あなたみたいな人は、タバコ、コーヒー、タバコの繰り返しより、ちょっとの仮眠が必要なんです。睡眠と、あとはまともな食事。聞いてますか?」
すっかり庭師兼家政夫が板についた世話やき口調と、津田の服がぴたりと合っている容姿の落差がおかしくて、憤慨する男を尻目に、大賀はひとり笑いつづけた。

まさか、あの津田に。あの、いつも飄々としてとらえどころの無い津田敬司朗と同じ顔をした男に、あれこれと世話をやかれる日が来ようとは。

「なあ、これってどうすんのー?」
ざりざりと音がして、竹箒を引きずった少年が現れた。
見れば晶子の子分である、大賀の拉致にもかかわった、眉毛の細いあの中学生である。
庭で集めたらしいゴミの入った袋をぶらさげた少年は、大賀に気づくと「ちは」と低く呟いて目をそらし、すぐに敬司朗へと向き直った。
「プラ捨てるとこ、どこ?」
「捨てるところって?」
「もー、ゴミは燃える燃えないで分別しなきゃだろ、分別。常識っしょ」
「え、分けるんだ。すごいなドイツみたいだねえ」
「なにがドイツ?」
噛み合わない会話に大賀は思わず吹き出してしまい、「大賀さん」と何故か敬司朗にとがめられる。
「んじゃ、勝手口のとこに分けてまとめとくから、混ぜないで、ちゃんと入れてくれな?」
教え諭すように言い置くと、大賀のほうを見ようとはせずに、少年は歩き去って行く。
「……ヒカルくんは、よく手伝いに来てくれるんですよ」
「へえ」
そんな名前だったのか、と大賀は去って行く背中へ目をやった。
晶子が通いの家政婦を断ってしまった心情は理解できなくもないが、この広い屋敷を見苦しくならないよう維持していくのは、手がかかるに違いない。
「親切で良い子なんですけど、あれはたぶんヤキモチなんでしょうね……。晶子ちゃんが、いつも大賀さんべったりだから」
「はあ、べったりねえ……」
はたから見ればそう見えないこともないが、それは状況からして晶子が頼りにできる人間が大賀のほかにいないからなのだ。しかしそれを元凶である当の男に説明できるはずもなく、曖昧に頷くと、手にした和紙に目を落とした。
「それ、難しいんですか?」
「難しいって言うか……意図が分からないから読みにくいって言うか」
溜息をつく大賀の後ろには、紙の束が積み上げられている。
晶子が持ち出してきた長持にぎっしりと詰め込まれていた紙は、手書きの文書であった。
ひとくくりに文書と言っても、紙の種類から綴じ方までもがさまざまで、きっちりと装丁された書物の体裁をしたものもあれば、紐で束ねられただけのものもある。書き手も複数であるらしく、ボールペン字で横書きにされた読みやすい楷書体のものから、果ては達筆すぎて読みこなすのに骨の折れる筆書きの草書体まであり、とりあえず目を通して種類別に分けようとしてみたものの、すぐに眠気に襲われてしまう始末であった。
晶子が言うには、片庭嘉一の収集品だから大切に保管しておくようにと、津田自身が語っていたというのだが、しかし。
(いったい、これが何なんだ)
大賀がいま手にしているのは、カバラの数秘術にとりつかれた人物の手記――のようであるが、読み手があることを想定して書かれたものではない上に思い込みの強すぎる文章であり、30枚ほど読み終えてようやく掴んだ情報が、書かれた年代が昭和の始めであるらしいこと、書き手が女性であるらしいことのみであった。
(能率が悪すぎる)
そもそも、自由になる時間となれば、睡眠時間を削るしかない大賀の生活だ。出来ることなら手分けして済ませたい作業なのだが、飽きっぽい晶子は当てにならず、残るは目の前にいる――
「どうかしましたか?」
大賀の視線に気づいて、敬司朗が問いかけてくる。
「べつに。何か生き生きしてるなと思って。やることないとか言ってなかったか?」
「ああ」
家を出る前夜のことを思い出したのか、男は顔を赤らめた。
「言いました。でもあの、庭の手入れなんかもやってみると面白いですよね。ここは庭のつくりも凝っているし、壊してしまうなんてもったいない」
「……そうだな」
きらきらと光の乱舞する水面に目をやって、大賀は頷いた。
「ここにいると、いくらでも時間があって……、今日はどうしよう、明日は何をしようって考えて。そう思うと、僕はいままで、やらなきゃいけないことしかやってこなかったような気がします」
「誰だってそうだろ」
「いえ」
同じように池を見つめながら、敬司朗は生真面目に首を振ってみせる。
「大賀さんみたいな人は、最初から分かっていて、覚悟していることなんです。僕なんかは、やらなきゃいけないことをやりたいことだと思い込んで、わけもわからず走り回っているばかりで。きっと、だからあんな風に――」
「あんな風に?」
先を促されて、敬司朗はハッとしたように口をつぐんだ。
「いえ、あの、こ――この家なんですけど、壊さないで、このままオーベルジュみたいにしたら面白いと思いませんか? ほら、フランスの田舎にあるみたいな……せっかく、ああいう立派な厨房があるわけだし」
慌てたようにすりかえられた話題であったが、心ひかれるものを覚え、大賀はあえて乗ってみた。
「オーベルジュか。面白いな……」
どうだろう、と視線を浮かせて考えてみる。
大賀もこの「宿泊施設のついたレストラン」の成立要件については知っている。二十数年前の日本はいざ知らず、現在は各地に地元の素材を使って本格的なフレンチを提供するオーベルジュが存在するのだ。業務で直接的にかかわったことはないが、オーナー・シェフの知り合いも何人かおり、経営の裏側の事情にはいくらか通じている。
「面白いけど、ダメだな。とくに立地が」
大賀は呟いて、かぶりを振った。試算するまでもなく、ものの数秒で結論が出てしまう。
いくら屋敷まわりが閑静であるとは言え、ここ三鷹市は東京郊外の典型的なベッドタウンであり、これといって目ぼしい景勝地があるわけではない。市内一の有名スポットといえば「ジブリ美術館」があるのだが、ここを目当てに訪れるファミリー層がわざわざ宿泊するほどの郊外でもない。加えてこの屋敷そのものに若い年代の家族連れを惹きつける魅力があるとも思われず、宿泊を抜きにしてただのレストランにしようにも、駅から遠すぎる場所なのだ。
飲食業界の人間らしい発想だが、「施設を残したいがために」という出発点からして無理があり、商売としては成立しようのないアイデアだった。
「……ダメですか」
「そうだな、一日一組限定の高級ダイニングやるほうがマシかもなあ……それだって、利益は出そうにないけどな」
確実に採算がとれるという目論見があったところで、そもそも持主である柳井美保が同意するとは思えなかったが、大賀はそれを口には出さなかった。晶子にしてからが、今朝も入院中である母親のもとへ行くのに「親戚の見舞いに行く」と言い残して出て行ったほどなのだ。この敬司朗がどこまで自身の身のまわりの現実を把握しているのか実際のところは分からないものの、あえて踏み込む必要のない話題だった。
これはただの「もしも」という空想上の遊び、ただの夢物語にすぎないのだから。
「利益、そんなに出ませんか?」
意外にも、敬司朗が真剣に食い下がってきた。大賀は灰を落として、短くなった煙草をくわえる。
「出ない。庭も池も屋敷も維持費がかかりすぎる。それを置いても、この家には根本的な問題があるしな」
「問題? 問題って、なんです?」
大賀は口の端を上げて、わざと皮肉な笑みを浮かべた。
「パクりってことだよ。よく言えばレプリカかな……この屋敷のオリジナルは、福井県にある」
「それはどういう――」
「ホンモノは養浩館ていう江戸時代の藩主の別邸で、文化財にも指定されてる。外観なんかそっくりだから、機会があったら行ってみるといい。個人の道楽でデザインを真似るのはいいとして、商売に使うのはどうだろうな」
言いながら、大賀は不思議な感覚を味わっていた。
甘い思いつきを頭から否定されて、敬司朗は「そうなんですか」と残念そうに肩を落とした。
「なんとかならないんですか……だって、こんなに綺麗な庭なのに」
それでも諦めきれない様子で、尚も言いつのる。
(もしかして、だからなのか?)
その瞬間、背筋の寒くなるような仮定が大賀の脳裏にひらめいた。
今の今まで、原因があって結果があるものだと当たりまえのように考えていた。だから分からなかったのだ。
かつて何か必要性があったために、業務用の規模のキッチンをつくったのかと思っていたが、そうではなかったとしたら。
(逆だったのか?)
その必要性が生じたのが「今このとき」であったとしたら。
(だとしたら)
螺旋状に渦を巻く思考が、混沌からひとつの真実をさぐりあてた瞬間だった。
だとしたら――この屋敷のふたりきりの住人に不釣合いなあの厨房は、津田敬司朗のささやかな願いから生まれた感傷の産物であったのかもしれない。
何故か密かにしまいこまれた大賀の写真。
本妻との子供をつくろうとしない矛盾。
原因と結果が逆であると考えたなら、津田敬司朗という不可解な男の人生の多くの謎に、答えが出るのではないだろうか。
(いずれ自分が見ることになると知っていたから、俺との写真を捨てられずにとっておいた? 晶子という自分の娘を持つことになると知っていて、他に子供を持つことをためらったのか?)
その新しい方程式は、大賀を最悪の気分にさせた。
もしもそうであるのなら、この敬司朗と津田をイコールで結ぶという、一見ありえなさそうなことに意味が通る。
ぴたりと辻褄は合うのだが、しかしそれはあまりにひどい、ねじれた生き方ではないか。
すでに知っていた結果のために故意に原因をつくりだし、結果を招き寄せるのであったなら、事の真の始まりはどこにあるのだろう。そして津田自身の意志は、いったいどこに? 
逆転する因果に、眩暈がした。

「……大賀さん?」

黙りこんでしまった大賀に、気づかうような声がかけられた。
晶子とよく似た茶色の瞳が、こちらを見上げている。

怒ったり笑ったり、埒も無いことで思い悩んだりする、線の細いタイプの若い男。
目の前の、およそ実業家向きであるとも思われない人物は、大賀の知る津田ではない。
しかし、いつの日か確実に、あの津田となる男なのだ。

「敬司朗……」
いままで何気なく発していた呼びかけに、大賀は息がつまるような緊張を覚えた。別人ではないのだという実感に、煙草を挟んだ指先が、かすかに震えた。
「はい?」
大賀の葛藤など知らぬ男は、素直に応じる。自分がこれから発する言葉が、またひとつ過去を確定して因果を歪めることになるかもしれないという思いに、大賀はためらった。
「あの、大賀さん……?」
呼びかけに、大賀は俯きかけていた顔を上げた。
(俺としたことが)
奇妙な成り行きに惑わされて、何をうろたえているのだろう。いつから大賀尚人という男は、遠慮がちな善人に成り果てたのか。
たとえこの仮説が正しかったとしても、選ぶのは俺なのだと言い切れない自分には、何の価値もない。
(過去も未来も知ったことか)
深く息を吸うと、大賀は傲然と顎を持ち上げた。
「掃除が終わったら、上がってこいよ。こいつを読み下すのを手伝ってくれ」
そして積み上げられた文書を顎で指し、いつもの調子で、可能なかぎりぞんざいに言い捨てたのだった。
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