水上奇譚

25話「終わりの始まり」


「どこだって? なに? BIG BOX前?」
携帯電話を片手に声を張り上げる。
人波をすりぬけるように、大賀は高田馬場駅前のロータリーを歩いていた。
一般の駅利用客だけでなく、募金活動や宗教の勧誘やキャッチセールス、果ては学生たちの待ち合わせで、いつも混み合う場所である。何を好き好んでここに呼び寄せるのかと、駅ビルの入口で手を振る相手に顔をしかめてみせる。
「……もっとマシな場所は無いのか」
大賀の第一声に、仕事帰りでスーツ姿の利章は、何故かプッと吹き出した。
「なんだよ」
「何って、いっぱい人がいても、おまえ目立つからすぐ分かるもん。あんなココロに訴える募金活動の前、しらーっと通りすぎるしさ」
「募金? いたか?」
振り返ってみると、確かに難病の子供を救うためというフリップを掲げた募金活動の集団がいる。
「他人の懐なんかアテにする時間があったら、バイトでもして自分たちが稼いだほうが早いだろ、って言ってたもんなー、おまえ」
利章がクスクスと笑いながら、そう言った。
まさにこの場所でそのセリフを口にしたような記憶があるが、それは10年も前の、互いにまだ学生であった時のことだ。
「いつの話してんだよ。俺だって募金くらいするよ、人並みに。災害があれば会社で集めてるしな」
「ああ、敬ちゃんの会社、あの業界にしちゃ社会貢献すごいやってるよな。本人そーゆー人じゃなかったけどさ。とくに運動家みたいなのが大っ嫌いで、そんなに世の中変えたきゃ偉くなって権力握ってみればいい、みたいなこと言ってたっけ」
「へえ……」
懐かしそうに津田の話をする利章に、大賀は視線を泳がせた。
今この瞬間にも、三鷹の柳井家にいるはずの男を思い浮かべてのことだったが、利章が語るような皮肉な物言いをする冷徹な人物像とあの敬司朗とでは、どうしても上手く結びつかない。
「チカさんが、今度は手首を切ったんだ」
ふいに告げられて、大賀は息を呑んだ。
周囲の喧騒が遠くなり、頬をなでる春風までもが、いきなり冷たくなったように感じられる。
しかし知佳子の身に何かあれば、利章はすぐさま連絡を寄越すはずだ。つまり大事には至らなかったのだろうと察して、大賀は肩の力を抜いた。
「手首……ちょっと切るくらいじゃ、死ねないだろ」
「うん、まあ。死ぬ気じゃなかったと思うよ。すぐ見つかったし、傷も浅かったし。でもさ……」
溜息をついて、利章が目を伏せる。
「俺はそういうの、分かんなくてさ。辛くて自分で自分を傷つけるって、何なんだろう」
「……痛みがあるほうが気が紛れるんじゃないか? 痛いほうが辛いよりマシってことだろ。あとは罪悪感から自分を罰したりとか、そんなところかな」
考えこみ、ごく真面目に答える大賀に、利章はふと表情を崩した。
「かもしれないけど、おまえが言うとなんか説得力ないなー」
「なら聞くなよ」
「はは、ウソだって。おまえなら何て言うのか聞きたくてさ。俺よく考えるんだ。チカさんのことだけじゃなくて、仕事のことなんかでもさ、おまえとか敬ちゃんだったら、こういう時どうするんだろうなあ、って……」
意外な告白だが、大賀はそこに少しばかり言葉が抜けているような気がした。気の優しい利章が気づいていない、津田や自分のように他人に容赦のない人間であったなら、という一言が。
「あー、なんか腹へった。久しぶりに、さかえ通りで飲まねえ?」
「おい」
駅前の繁華街へと向かって歩き出した利章を、大賀は呼び止めた。
「チカさんのことだけど、おまえが協力してくれるなら――ひとつアイデアがある」


「これこれ、これなんだけどー」
晶子がうんうん苦しみながらも、 長持 ながもち のような物を引きずってくる。
「おい、傷がつく」
大賀が思わず声を上げたのは、晶子が引っ張り出してきた頑丈そうな物入れでなく、美しく張られた柳井家の廊下のほうを心配してのことだった。
「だって持つとこ無いんだもんー。いいでしょ廊下なんて、どうせここ無くなっちゃうんだし」
注意されて口を尖らせた晶子は、
「えっ、この家なくなっちゃうの? まだこんなに新しいのに?」
意外そうに目を見張る敬司朗に気づいて、ばつの悪そうな顔をした。
「あの、まあね、もうちょっと先のことだけど……」
「本来は竿に引っ掛けて運ぶものなんだよ、ほら、貸してみろ」
大賀がふたりのやりとりを遮り、手をかけてみると、それは桐で出来た古い長持だった。
晶子が「見せたい物がある」と言って持ち出してきたこの大きな物入れは、本人の言葉を信じるとすれば、この土地に家を建てるときに土の中から発見されたものだという。
かがみ込んで確認してみると、ところどころに黒いシミが見受けられるが、これはカビだろう。水分を吸収しにくい桐はカビの繁殖も少ないはずであり、地中にあったというのはあながち嘘でもなさそうだった。
「これが埋められてたのか?」
「うん。まわりをビニールで覆ってあったって言うから、そんな昔に埋めたものじゃないと思うんだ。大賀はこれ、見たことない?」
「さあ……先代が古民具をあつめていて、長持もあったけど、もっと飾りのついたインテリアになるようなやつばかりだったな。これは見た記憶がない」
するりと口をついて出た「先代」という言葉に大賀は我に返ったが、晶子は了解事項であると言うように「片庭嘉一だね」と頷いてみせた。
「知っているのか?」
意外な反応に、大賀は顔を上げた。
「知ってる……っていうか、教えてくれたのは、『あの人』なんだけどね」
「そうなのか」
「うん、これがどこかに埋まってるはずだって言ったのも、『あの人』だったみたい」
「なるほどね……」
言葉少なに確認しあいながら、見ないようにしていたつもりが、自然と目がそこにいる若い男へと吸い寄せられてしまう。大賀と晶子の物言いたげな視線を受けて、敬司朗は戸惑った様子で「あの、どうかしましたか?」と首をかしげる。
気持を切り替えるために、大賀は軽くかぶりを振った。
「どうもしないから、ちゃんと見ておけ。で、この中身はなんだって?」
意外なほど重いこの長持を座敷へ引きずり込めば畳を傷めるようで気がひけて、結局は廊下で開封することにした。白い作業用のうすい手袋を嵌めながら、大賀は気のすすまない自分を鼓舞するために、あえて晶子へ問いかける。
長持の鍵と封印は、すでに解かれている。
遠い昔に、すでに津田敬司朗がこの中身を確認しているからだ。
(だけど、始まりは今だ)
大賀は、少し離れた位置で他人事のように成り行きを見守っている男へちらりと目をやった。
おそらくは、今この時があったから、津田はこの中身を知っていたのだ。
(それなら、開けなかったら? 開けずにおいたらどうなる?)
このまま開けないでおいたのなら。
指先から、眩暈のするような捩れた感覚が這い上がってきたが、それは数秒のことだった。
(くだらない)
ここで怖気づいて僅かな事実を変えたところで、どのような未来が手に入るというのか。

死人は生き返らない。
あの津田という男は、決して戻ってはこない。

蓋に手をかけて、大賀は何の予告もなくそれを持ち上げた。
「……入っているのは、紙だよ」
晶子のひそやかな声とともに、ぎっしりと詰め込まれた紙の束が現れた。


大賀は、あの日の監視カメラの記録を何度も確認した。果ては画像が加工されたものではないかと疑い、最新の真正性検証ソフトウェアを走らせた。複数のものを試しながらも、結果はいずれも加工なしという判定に終わった。
見たままの事実を真実とするのなら、池の水が波立ち、揺れて、次の瞬間には男が水に浮かんでいたことになる。

つまり文字どおり何も無いところから、この津田を名乗る若い男は現れたのだ。

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